【未活動になって約6年】今さらですが、池田先生逝去で出た感情が感謝だった話
ご無沙汰しております。
創価学会員 5世 完全に未活動になった、ゆるめです。
未活動ですが、第3代会長池田大作氏のことは、池田先生と呼称しますのであしからず。
まさかの2022年8月11日以来の投稿。
1年半以上投稿しなかったのは、特に大きな理由があったわけでは無いです。
思い当たるとすれば、noteに吐き出すフラストレーションが溜まらず生きていたということです。
池田先生の訃報を知った瞬間
2023年11月18日
友人と遊んでるときに入った池田先生の訃報。
「やたらLINEが来てるな」とチラッと確認したら、
家族や元女子部のメンバーから訃報についての連絡が来ていました。
一瞬時が止まりました。驚いて口も半開きでした。
同時に「ついにこの時が来たか」という落ち着きもありました。
一緒に遊んでいた友人には自分が創価学会員とは言ってなかったので
何も言えず、一旦心にとどめて、遊びを楽しみました。
友人と別れたあと、1人になってから帰りの電車で
先生が亡くなった記事等を じっくり読みました。
家族や元女子部メンバーや、創大の友人と連絡を取り、
気持ちを共有し合いました。
自然と出てきた感情は”感謝”しかなかった
私は、学会活動しているとき(所謂”活動家”です)
幹部や体制や暗黙のルール、選挙のやり方とか諸々
「なんやねんこれ」と思うことは多々ありました。
でも、釈尊の教えからの日蓮の教えは、好きだったんですよね。
好きというか腑に落ちる・納得できる・そうだろうねと感じられたんです。
きっと創価学会ナイズされていることも多いでしょうが、
桜梅桃李であり、
自分の生命を磨いていくこと、自分の境涯革命を目指し
「心こそ大切なれ」という視点については、やはり今でもそうありたいと思うのです。
普遍的なことだと思うからです。
また、生命の発生においても
宇宙視点で物事を考えてたりすると「変わってるね」「大規模過ぎない?」と言われてた時代に、
その視点で物事を見ることが当たりまえだったのは、
紛れもなく池田先生の教えがあったからです。
今やそんな視点は当たり前になってきましたもんね。
池田先生に対する色んな批評は置いといて、
私にとって池田先生はどういう存在だったかと言うと
やっぱり”先生”だったんだなと思うんです。
創価学会という組織も、
私がしっかり知っている組織は平成10年頃から令和にかけてです。
私の視点で見た組織は、前述した通り、納得いかないやり方・考え方もありました。
それも、成長に伴うその時々の視点・思考が影響していることは確かです。
昭和がどうだったかなんて知ったこっちゃないし、
平成の間、学会と世間と揉め事があったとしても、
それは幹部でもなく学会本部の職員でも何でもない
イチ庶民、イチ会員の私がやらかしたことではない。
そして真偽も私には分からない。
純粋な小学生だった私が感じた教えは、
厳しいけど、優しくて明るくて、エネルギーが湧き出してくるものでした。
自分の可能性は無限大だと思わせてもらえる、主人公感をもらえるものだったんですよね。性格もあったと思いますが。
それで充分でした。
そう感じられる教えが根幹で生きてこれたことに
本当に感謝の思いが湧いてきたんです。
noteでも記事にしてますが
成長に伴って、その教えが自分への縛りになり苦しみになることもありました。
ただ、それは、私の成長過程による捉え方がもたらしたものですので、あしからず。
根幹として、仏法は生命を説いているだけなんです。
めちゃくちゃすごいことなので「だけ」と言うと語弊がありますが。
私が仏法に接することになったのは、
池田先生がいたからであり、
その仏法を面白く希望を感じられるよう教えてくれたことに
感謝しています。
大学時代、たくさんお菓子と書物を先生からもらいました。
直接話したことは無いけど、
入学式、寮の前、部活中、文化祭、卒業式
先生を直接見て声を聞くことができたこと、貴重な経験でした。
友人と会った帰りの電車の中で
池田先生逝去の記事を色々見ながら、
ブワーーーーーーっとこれまでのことが駆け巡り
「本当にありがとうございました。」
「本当に本当にありがとうございました!」
「そして、おつかれさまでした!(上から目線かな?)」
それだけ、本当にその言葉をずっと繰り返し、心で強く叫んでました。
祖父や祖母が亡くなった時も思ったことなんですが、
なんか、亡くなった後の方が、近くに感じるんですよね。
物理的距離が無くなるので、直接ストレートにその魂へ届いている気がします。
今は未活動でも、そんなこと関係なく
これまで受け取ったものが、
自然と感謝になって湧いてくるんだな~と知れました。
学会活動において、恨みつらみが発生するような環境や出来事は無かったし、嫌な人と出会わなかったことも関係しているかもしれませんね。
未活動 約6年の今
すっかり活動に意味を感じなくなり未活動で約6年となりました。
最近感じるのは、自分の目に生気がない。笑
学会活動しているときの顔ってやっぱり使命感持っているからか
活き活きしてて、目もキラキラしてるんですよね。
それは凄く感じます。
でも、今は地に足がついている。
しっかり、自分の力で人生を進んでいる実感が続いています。
心の底で浮足立たない感じのワクワクがずっと居るんですけど
それは、その実感がもたらしているものだと思ってます。
とはいえ、活動していた時みたいな心の躍動とか、
生命の成長は感じられないどころか、
むしろすこ~しずつ荒んで行ってる気もします(笑)
荒んでいってるけど絶対大荒れにはならない
謎の自信があるんですよ。
また自分の力で、キラキラさせていこうって実際におもっているし、
そういう自分であることを知ってるし信じているんだなと思います。
お題目を良くあげていた時は、
自分の生命を磨いていこうとする心になりやすかったんだと思います。
だからこそ、「お題目が無いとダメな自分」って逆に自分を貶める心も出やすかった。
お題目をあげなくなってから、
素のポテンシャルが見えやすくなって、
今は、その素の自分と付き合って数年経ったので
より自分の心の変化も良く感じられるし、クセも良く理解できるようになりました。
それが自信に繋がっていると感じます。
お題目をあげてたからダメと言いたいのではありません。
私はそうしないと自分が見えないタイプなのです。
今の人生に
仕事も恋愛(?)もあります。
あることに感謝しています。
今の私の改善したいところは、すぐに体調を崩してしまうこと。
運動ができていないこと。しんどくてため息が出やすくなっていること。
愚痴?文句?が出やすくなっていること。
少しずつ、自分の歩幅で
目に生気が戻る思考と行動へ移行していきます^^
長文になりましたが
最後まで読んでいただきありがとうございました。
皆さんが今日も明日も心豊かに過ごせますように✨
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