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こころを入れて続ける

こころを入れて続ける、ということが結局一番だいじなことだとさいきん思う。ダラダラとつづけることはだれにでもできるが、こころを入れて続けるのは簡単なことではない。

たとえば、ぼくは朝起きたらまずちいさな神棚に手を合わせ、それから家族の遺影に線香をあげるのだが、形の上でこれをつづけるのは簡単だ。手を合わせればそれでいい。しかし、こころを込めて手を合わせようと思えばまったく簡単ではない。

こころを込めるというのは、具体的に言うと、まず神棚のまえでは昨日一日地震がなかったことを感謝する。神様がいるのかどうかは知らないが、昨日一日が平穏ぶじに終わったことはけっして当たり前のことだとは考えてはいない。それが自分の力だとも、憲法にさだめられた権利だとも思っていない。自分のちからを越えたなにかに対して昨日一日が無事に終わったことを「ほんきで」感謝する。

でもこの「ほんき」が足らないことがよくあるのだ。ほんきの感謝を365日つづけることができない。

しごとのことが気になっていることもあるし、「さっさとトイレに行きたい」とか「パソコンの調子が悪い」などと思いながら手を合わせていることもある。

そういう自分に気づいてやりなおすこともあるが、それでもほんきの感謝がわきあがってこないまま終わることも多い。

朝ちょっと手を合わせるという、たったそれだけのことでも365日こころを入れてやるのはかんたんではない。ましてや仕事だとか勉強だとか、なんでもいいけど365日こころを入れてやるのはまったくかんたんではない。

大峰千日回峰行を達成した塩沼亮潤 大阿闍梨という人がいるが、こういう人が365日心を入れて手を合わせられる人だ。過去1000年間でかれをふくめて2人しか達成していないという荒行であり、どれほどすさまじい行かというのは『人生生涯 小僧のこころ』という本を読んでいただければわかる。

なぜこの人の名前を出したのかと言うと、ぼくよりわずか17日前にこの世に生まれた人だからだ。平成のはじまりのころ、ぼくがバカなわかものでしかなかったころに、同世代の若者がこれだけの荒行を「こころを入れて」やりきったということを考えるだけで、じぶんがどれほどツマラナイ人間かということを思い知ることができる。ありがたいことだ。



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