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真実は小さな声で語られる

ぼくはこのブログを小さな声で書き続けている。なぜなら真実はつねに小さな声で語られるものだから。

真実が、だれにでも聞こえるような大声で語られたことはかつてない。真実は民主的ではないし、耳元でがなり立てもしない。相手を選んでそっと語られる。

みんなを助けるなどというのは不可能なことだ。世の中はそんなふうにできていない。たとえば、御巣鷹山に墜落した日航123便。

あれが墜落するかどうかは「神さまの目から見れば」事前にわかっていた。後部圧力隔壁の亀裂は、離陸する前から存在していた。だから、次に飛び立てば墜落するということは事前に「物理的に」定まっていた。

しかしその事実は多くの搭乗者には伝わらなかった。けれども、虫の知らせのようなものを感じて生き延びた人もいる。何名かの人たちは「さまざまな偶然が重なって」乗り遅れたり、キャンセルしたりして、事故を免れた。

でも、だれかがキャンセルすれば、代わりに乗り込んでくる人がかならずいる。全員が助かるということは不可能なのだ。

地下鉄サリン事件だってそうだ。
毎日あの車両に乗っていたにもかかわらず、事件当日だけ乗り遅れて難を逃れた人がいる。逆にいつもは乗っていないにもかかわらず。たまたま当日に乗り合わせて亡くなった人もいる。

どうしてそうなるのかはわからないけど、真実はわずかな人にだけ届くようになっている。逆にあまり多くの人に伝えようとすると、その過程で、まがい物にすり変わってしまう。

だからここでぼくはささやくようにしか真実を語らない。バカにする人が出てくるのも自然なことだ。

123便と同じで、キャンセルする人がいれば、代わりに乗り込む人もいる。10人の人がバカにするということは、10人には確実に伝わったということでもある。

エラそうに聞こえるかもしれないが、これだけ情報があふれる中で、あなたがこのささやきに出会ったこと自体がそもそもたいしたことだ。

ぼくはあえて読者をふるいにかけるような書き方をしている。読者が嫌がるようなことも書いている。

真実に触れた翌日には、検便のウンコ採取法について書いている。

スピ系の人にとっての真実とは、仮屋崎省吾さんのフラワーアレンジメントにかこまれ、エンヤが流れる中でキラキラともたらされるようなきれいごとだ(=「オーラの泉」)。

そういう人をあえてふるい落とすような書き方をしてきた。

また、生涯年収を計算して、自分を殺して会社勤めを続ける人たちにアピールするような書き方もしていない。トイレットペーパーを慌てて買いに走る層に届く書き方もしていない。

ぼく自身、ある種の世界の真相にたどり着くことができたのは、一切の妥協をしない生き方を続けてきたからだ。だから、同じようにまっすぐ生きている人にしか伝わらないように、小さな声で書き続けている。

それでもふるい落とされないでこれを読んでいる人は、よほどの人だ。

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