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オヤジたちにしかできないこと

だれのふりを見ればいいのか

「人の振り見て我が振り直せ」という言葉があるけど、これは他人の悪いところをみたら、非難するよりも自分を正すための役に立てよう、ということだ。

とはいえ、そもそも、あらゆる他人の欠点を、自分の欠点として受け止めることが役に立つのだろうか。そんなことはないはずだ。

たとえば、カタールワールドカップの際には、仕事を辞め、お金ももたずにカタールに乗り込んできて、難民化しているアルゼンチン人サポーターがたくさんいたらしい。

これを見て「日本人も路頭に迷わないように気を付けよう」などと我が振りなおしても意味がない。

むしろ逆だろう。ひごろ石橋を叩きまくって渡らない日本人は、ラテン系の向こう見ずな生き方をすこしは見習ったほうがいいくらいだ。

このように、異質な人々の欠点を見ても、我が振りを直す役には立たないわけで、逆に言えば、参考になる欠点とは、自分と似ている他人の欠点だといえる。似た者同士の欠点をみたときに、それを自分の身に置き換えて反省してみるのが有効だということ。

似ているというのは、同じ国に生まれた人や同じ地方に生まれた人、同じ業界にいる人、同じ会社にいる人などなどいろいろあるだろうが、中でも、

同じ時代に生まれた人

というのはすごく参考になる、大事な存在だと思う。

なぜなら、空間の外側に出るのは比較的簡単だけど、時間の外側にでるのはすごく難しいから。

オヤジのふり見て我が振り直せ

外国から日本を眺めれば、日本の欠点がよく見える。会社を辞めればその会社の悪いところがよくわかる。永田町から引退すれば、永田町の良くないところがわかったりするのだろう。

このように空間の外に出るのはわりと簡単なんだけど、時間の外に出るのはこれほどお手軽にはいかない・・というかほとんど不可能だ。

バブル期の狂騒を30年後の今になってバカにするのは簡単だが、当時はそんなことはわからなかった。時代の外に出て自分を顧みることはできないので、我が振り直しようがない。

これは今も同じで、令和という時代の空気のいいところや悪いところをいま客観的に把握するのはほとんど不可能で、何十年も経ってふりかえってみなければわからない。

とはいえ、時代全体の欠点を探るのはムリでも、ほんのちょっとだけ時代の外に出ることはできることはできる。それは、同世代に生まれた他人を眺めればいい。

これはとくに「おじさん」世代に差し掛かったぼくらにとっては有効なことで、いまおじさんと呼ばれている世代のふるまいを客観的に見て、

いやだなあ・・

と思えるようなことが見つかったら、それは知らず知らずに自分の欠点でもあることが多いので、そこから我が振り直すのが役に立つ。

昔ばなしと自慢話が鼻につく

以上は、どの世代にも有効なのだが、とりあえず、ぼくが同世代のおじさんたちを見ていて、まずイヤに感じるのは自慢話&昔ばなしである。

ご本人は過去の栄光を気持ちよさそうに語っているけど、周りはウザがっており、本人だけが気づいていない。わが振り直して、ぜひ気を付けたい。

そして、これと似たようなことなんだけど、とくに最近SNSなどで目につくことがある。

最近のYouTubeでは、昭和の映画やらドラマやらアニメやらが公開されることが多いんだけど、そういう動画のコメント欄には、決まっておっさんたちの

昭和の頃の作品には重みがあった・・
今の作品はツマラナイ・・

という意見であふれる。これはものすごーくみっともないと思うので、ああいう風にならないように気を付けたい。

ならばえ、新しい作品を褒めたらいいというような単純なことでもないと思うので、このあたりをちょっと丁寧に書いてみよう。

昭和礼讃は、単なる昔ばなし

最近、動画配信サイトなどで、が1970年代から80年代辺りの映画がたくさん公開されている。そうした動画のコメント欄をざっと眺めると、

あの時代の映画は良かった。
いまではあんなにおもしろい作品はない

みたいな意見が多いわけだが、こういうコメントを入れているオヤジは、決して今の映画と昔の映画を客観的に比較しているわけではない。

その証拠に、そうした昭和礼讃をやっている人々は、けっして自分が生まれる前の昭和の作品をほめたりはしない。

昔の作品がほんとうにいいのなら、自分が生まれる前にだってもっといい作品があったはずだが、そういうものをほめたりはしないのだ。

いつの時代に生まれようと、思春期に触れたコンテンツはだれにとって特別なものだ。おやじたちはそのノスタルジーを「昭和は良かった」という風にかんちがいしているに過ぎない。

幼少期から青年期に接したコンテンツを身びいきしているだけで、新しいものを受け入れる柔軟性が失われて、昔ばなしをしているだけだといえる。

ここが「オヤジ化」のポイントのだが、他人の批判をするつもりはなくて、我が振り直せなので、自分がこうならないように気を付けたいところだ。

古典に目を向けよう

では、おやじも新しいものを褒めたらいいのかというと、新しいものを吸収する力では、新しい世代の感性にかなわない。

ただし、新しい世代の弱点は、時代の空気にどっぷりつかっている分、歴史を俯瞰する力が足りないことだ。

その点はおやじ世代のほうが有利なのである。だからわれわれが柔軟性を保とうと思えば、新しいものに飛びつくよりも、むしろ、

より古いものの良さを味わう

これだろう。「より古い」とは自分が生まれる前の作品のことであり、言い換えれば古典に目覚めるということ。生まれる前の作品にノスタルジーが湧いてくる余地はないので、身びいきもない。

たとえばぼくは1968年に生まれているので、その14年も前に作られた『七人の侍』にはノスタルジーのかけらも感じないが、この作品の良さはわかっているつもりだ。

ぼくが『七人の侍』の良さを理解するのは、2014年に生まれた子が2000年に放映された『池袋ウエストゲートパーク』を良さを理解するのと変わらない。

若い人は、感性100%で生きているのだから古いものにあまり関心を払わないのは、自然なことだ。そして未来を開くカギは彼らの感性にある。ただし、知的な視線が足りない分、ときには素朴なかんちがいに陥ることもあるだろう。

とはいえ、自分が若かったころの作品ばかり持ち上げる年寄りも、感性だけで語っているのは同じで、そしてこの感性が時代遅れになっている。

これはぼくも同じことで、1980年代の『セーラー服と機関銃』をほめる場合は身びいきとノスタルジーの産物だから、割り引いて考えなければならない。けれども、生まれる前に作られた『七人の侍』へ向ける視線は、これから作られる作品へ向ける視線と同じである。

自分が生まれる前の作品の良さを味わうには、知らない時代の雰囲気を、知性と想像力で補ってやらなければならない。そして、これをやれるようになるにはある程度経験を積む必要がある。

ぼくだって、戦前の無声映画なんかつい最近まで良さがわからなかった。それらを味わうことは、昔を懐かしがることとはまったく異なる知的作業だといえる。

なので、自分と同じ世代にのオヤジに言いたいのは、ムリに新しいものに迎合しなくてもいいけど、かといってノスタルジーにも閉じこもるのもやめませんかということ。そして、そろそろ古典にも目を向けましょうよと。それこそがわれわれにできることなのだから。

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