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ネコの墓場におもうこと

あなたはネコの墓場というものをみたことがあるだろうか。
ぼくはそれらしいものに遭遇したことがある。

ネコの墓場とは、象の墓場のようなものだとされている。

象の墓場とは、死期を悟ったゾウが群れを離れて本能的に向かうとされる場所。 都市伝説の一種であり、存在を裏付ける証拠は無い。

象の墓場 - Wikipedia

野良ネコの死骸ってなかなかみないですよね?だから、「死期が近づいた猫は、とくべつな場所へ向かうのではないか」などとウワサされているわけだ。ただし、単なるうわさではなくて、ぼくはそれらしい場所を知っている。

実家の近所の雑居ビルのウラ側に、大人が体を横にして通れるくらいのすき間がある。

何十年も前のことだが、ぼくはそこに入り込んでいった。なぜあんな場所にはいりこんだのかはっきりおぼえていないけど、とにかく突き当りまですすんでいったのだ。すると、その先が直角に折れてさらに進めるようになっていた。

その先のせまい通路に猫が横たわって死んでおり、すでに腐敗が始まっていた。

ああ・・ネコはこういう場所で死ぬのだなあ

とみょうに納得したものだ。なにせビルのウラのウラ側だ。ふつーの人はまず足を踏み入れない。

それはともかく、なぜネコがああいう場所で人知れずに死ぬのかについては、わりに説得力のある説を聞いたことがあるので紹介したい。

ただし、オカルト系の本で読んだことなので、そのつもりで聞いてください。いま本棚を探したけど見つけることができなかった。でも、今から書くことはだいたい読んだ通りのことだ。

さて、ネコに限らずあらゆる動物は、傷を負ったり、病気になったりすると、地面に伏せて治すらしい。

つまり、自然治癒力に任せるということだけれども、どこの地面でもいいというわけではない。地脈というか、エネルギーの湧いている場所というか、最近はやりの言葉でいうと「パワースポット」である。そういう場所に寝そべることで自然治癒力を高めて傷をいやすのだそうだ。

動物にはそういう「気持ちのいい場所」を見分ける本能があるそうだ。

ネコも、他のネコとけんかして傷を負ったりすると、「傷を治すパワースポット」に出向いて、傷がいえるまで伏せているらしい。

もちろん、その場所は他の動物に襲われにくいへんぴな所にある。穴場のパワースポットである。

そして、死期が近づいてきたときにも、とうぜん調子が悪いわけだから、そのパワースポットに出向いて横になり、そして、そのまま息絶えてしまうのだという。

べつに死期を悟って特別な場所に赴くのではなく、具合が悪いので穴場に出かけて行ってそのまま死ぬわけである。

さて、ここまではいいとして、話はここで終わらない。

ここからちょっとオカルト的な領域に行くので、そういうのが嫌いな人は眉に唾をつけて読んでほしい。

この先の話は、人間の死後に肉体以外の何か・・つまり魂と呼んでも霊と呼んでもとりあえずなんでもいいが、タンパク質以外の「構造体」が残ると仮定したうえでの話である。

こう仮定した場合、動物の肉体も、人間と同じくそうした非タンパク質的構造体、すなわち真の生命のようなものに支えられていると考えてもいいわけだが、ただし、動物には人間にあるような「自意識」はない。

なので、死んだネコの魂は、朽ちていく死骸の傍らで、その死骸を汚いとも醜いとも思わず、ただよりそっているのだそうだ。

やがてその魂は、万物の源みたいなところに吸収されて「成仏」していくんだそうである。

ところがそのネコの死骸を人間が目撃してしまった場合はやっかいなのである。つまりぼくがやったようなことですね、そのとき人間には自意識があるので

うう・・気持ち悪い

というふうに死骸に嫌悪感を抱いてしまう。

たとえば道路ではねられて無残な死骸をさらしているネコに対して、わきを通っていく何十人何百人というドライバーはみな

うう・・気持ち悪い

と、嫌悪感を抱きながら通り過ぎていくわけである。

自動車にはねられたネコの魂は、ほんらいなら自分の死骸のことを汚いとも醜いとも思わない。しかし、通りすがりのドライバーたちの何百という嫌悪感をあびているうちに、同調してしまって

自分は嫌悪すべき存在なのだ

という意識が芽生えて、成仏できずに悪霊化していくのだと聞いた。

さて・・それはさておき、今日言いたいのは、人間の

うう・・気持ち悪い

についてである。

動物は、動物の死骸に対して

うう・・気持ちわるい

とは思わない。うつくしい森や山や湖は、膨大な生き物の死骸が肥しとなって成り立っているわけで、新緑も、紅葉も、動物の死骸もひとしく自然の一部に過ぎない。美しくも汚くもなく、ただ自然なだけだ。

しかし人間は、新緑をうつくしいと思い、動物の死骸をみにくいと思い、おのれのせまい価値観にしたがって、勝手な判断をくだしている。そういう浅薄な見方しかできないのが、人間の自己意識というやつである。

さて、仏教には、「九相図(くそうず)」と呼ばれるものがある。

屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画

九相図-Wikipedia

なんだけど、これを眺めることは、修行僧にとって煩悩を払うことになるのだそうである。

つまり、朽ちていく死骸を見て「うう・・気持ち悪い」と思うのは煩悩であり、修行僧は、その煩悩を捨てるために九相図を眺めるわけだ。

ところで、最近、火葬でも土葬でもなく「テラメーション」という遺体の処理方法が話題になっている。

人の遺体をおがくずなどと共にじっくり眠らせ、微生物の働きで土に還す。火葬や土葬よりはるかに地球に優しい新たな葬法が、特に若い世代から注目を集めている

60日かけて遺体を土に還して「堆肥」にする「テラメーション」が人気に

のだそうで、19年にアメリカのワシントン州では合法化された。

火葬も納棺土葬も持続可能には程遠い。1回の火葬には通常115リットル近い燃料が使われ、大気中に排出される二酸化炭素は245キロと推定される。一方、一般的な納棺土葬は場所を取るし、遺体の腐敗を防ぐために発癌物質のホルムアルデヒドを使うことが多い。

そういわれてみると、火葬も土葬も、人間の自意識が、ほんらいは自然なことである死を汚いものと感じ、そこから目をそらすためにやっていることだ。そんな不自然なやり方より、微生物の力で土にかえすほうが、動物の死に方に近く、自然に近く、煩悩を捨て去った理想の処理方法だと思える。

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