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『ワンダーエッグ・プライオリティ特別編』が示した〈日常〉への墜落という微かな希望

ここでは「奥行きのあるラジオ」のアンケート「2021年春アニメで一番面白かったアニメを教えてください!」で紹介された筆者ユルグの1位作品の投稿文に加えて、カット部分を含め公開することにする。全3回中の1回となる。
今回投稿した1位作品は『SSSS.DYNAZENON』であったが、『ワンエグ』との比較対照したものとなったため今回はその前フリとなる『ワンダーエッグ・プライオリティ特別編』評から始めたい。

以下が紹介された動画のリンクである。

*注(全3回ほぼ共通)
薄く色付きの網の掛かった部分が投稿文である。
批評でもエッセイでもその他のいかなる創作でもなく、それがいかに一見  破格に見えようとも、あくまでも投稿先のラジオのパーソナリティーである鳴海氏、ミヤ氏に宛てた投稿文という性格の再現が目的のため、誤字脱字、推敲不足によって明らかに文意が通らなかった場合を除き、加筆修正は最低限にとどめた。
またその他は読みやすさのために適宜分割し、新たにサブタイトルを付す。

🐣小糸は〈どこで〉タマゴから孵ったのか?

春クール1位は『SSSS.DYNAZENON』(と『ワンダーエッグ・プライオリティ』 ふたつのセカイの距離

はい。では、特別編をもって幕を下ろした『ワンエグ』から『ダイナゼノン』を語るという「無理を通して道理を蹴っ飛ばす」無体をどうかご容赦ください。

作中に何度か言及されたように『ワンエグ』は無数の並行世界を前提として成り立っており、その構造を読解することで見えてくるものこそがここで述べたい核心となる。

その構造の読解は1話終わり近くのEi(ドイツ語のアイと発音するこの単語はタマゴのことである)とアカ裏アカとの会話から始まる。

「(初めてエッグ世界で助けた少女)くるみちゃんはどうなったの?」
「お前の親友と同じだ。どっかの世界で彫像になってる。彼女の友達があの世界に行かなければ、永遠にそのまま」
「くるみちゃんも自殺したの?」
「ノーコメント」「ノ~コメント~」

全編を振り返ったとき、もしこのルールが(少なくとも多数の並行世界において)普遍的なものであったならば、こうなる。

「生き返る」ための条件。1度目はくるみのように見知らぬ誰か(彼女にとってはアイ)の救済が、2度目は小糸の彫像へアイのように「友達」による救済が必要だということだ。

フリルの死の誘惑が関わるかどうかは別として、様々な無数のある世界で少女が自殺する。その少女のエッグを「誰か」が買い、その様々なエッグ世界で、割って生まれた彼女をワンダーキラーから守る。守られた少女はまた別の世界で彫像となり、いつか彼女を助けに来る「友達」によってゲームクリアされれば、別の自殺しなかった世界の存在となる。(あるいはその世界が新たに生まれる?または助け、望みを叶えた者のみが別世界で目覚める?)

重要なことは、自殺して彫像となった少女、例えば本編の4体の彫像、小糸、あいるらは彫像となる前に、ゲームクリアのためにワンダーキラーからアイたちが助けたくるみたちのように「他の世界の誰か」にすでに1度目の救いを与えられていたということだ。
では小糸はどこで「誰に」ワンダーキラーから守られたのだろう?


🐣もう存在しないアイの友達とは誰のことか?

一気に想像を膨らませよう。
ここで描かれた世界のシステムは示唆する。もしかしたら本作に登場したすべての少女たちはアイのようにある世界では自殺し、ある世界ではエッグを割って少女を守り、あるいは逆に守られ彫像になり、そして自分を助けたと思った友達をある世界では「裏切って」いるのかもしれない。

小糸がアイに対して、ちえみがリカに、ハルカが桃恵にそうであったように。
例外友達ではなくAIと人間という根本的差異のあるねいるあいるだろうか。
そして本作の主人公のアイもまた、もしかしたら他の世界で、いや、あの描かれた世界の中で、第12回「負けざる戦士」においてエッグから現れ自殺した自分を助けて「誰か」に託すことになる彫像への1度目の救済を自分自身もすでに経ていて、何も知らないまま、本作には存在しない「友達」の願いと戦いを忘却し、知らないまま、彫像から今の世界に2度目となる救済も経て、すでに「裏切った」まま生きているのかもしれない。はじめから。その「友達」を失ったことに気づかないまま。(例外的に「生き返った」ことを自覚しているのが寿ということになる。)
すべての少女がすべての立ち位置の当事者でもあるかもしれないこと。そうではない理由はなにもない。


🐣現実に潰されるタマゴ/現実を孵すタマゴ

こんなふうに世界は廻り少女たちも変転して廻り続ける。必死の願いは叶えられることで裏切られる。死への誘惑というタナトスと戦うエロスの戦士が互いに拮抗しつつ混ざり合うことで成立している、無数の世界を貫徹するルール
『特別編』アンチクライマックスとしておそらく多くの視聴者にカタルシスを与えなかったのは、それが、もはやあるべき世界もあってほしい世界も存在しないこの厳然たる世界の開示であったのだから当然だろう。
この意味とは、現実を唯一の世界であるか多世界を現実とするかの日常感覚のグラデーションとは関係なく、現実をそのまま提示したということだ。
現実にフィクションのようなカタルシスはない。
しかしその現実性からこそ、そこで発見できるものがあるはずだ。

アイ現実のようにいつしか友達と離れていき、現実のように学校生活に挫折する。リカや桃恵らとともに不全感を抱えつつもエッグ世界で経験した恐怖と徒労からか、アイ現実に留まることしかできない。
そして「親友」と言ってくれたねいるからも、彼女の心の内の不透明さへの怯えから縮こまってしまう。友達の電話にただ漫然と出ないこと。それが重要であるとわかっていればいるほどそうしてしまうこと。投げ捨て手放してしまうこと。それはただの現実だ。

ただ過ぎていく現実の中で、ふとあのときの思い出がアイを再び走らせるねいるの秘書田辺から聞かされた「自分のことを話すのが怖かったのだと思」うという証言とねいるの最後の夢の録画であいるに放った「わたしも戻る。友達に会いたいから」という言葉がそうさせたのかどうかはわからない。
そこにあるのはこのクソのような世界のルールの中で、それでもだからこそ抱かざるを得ない、偶然巡り合った「友達」へふとこみあげる「いたわり」と「呼びかけ」、差し出す手。信頼とも信仰とも言えるそれは生きることそのことと別のことではない。現実でしか生きることはできないのだから。
なぜそんなことが可能なのか?その「信」はあのルールの中で1度目の「見知らぬ誰か」に相互に向けられたものだ。

すでに成立していたかもしれないそれが気づかれることなく突き動かす。
死の誘惑に駆られ自殺した少女たちの手を取り、ともに戦う一時の交流から得る思い出もまた、あの世界のルールに挑む少女の「友達」を「知りたい」「いたわりたい」ということと同時にしか存在しない。
エッグから生まれた見知らぬ少女を守るアイの戦いが、「その少女の友達」のための戦い(復活を待つための彫像化)であると同時に、「アイ自身の友達」(小糸)の復活のための戦いでもあるという同時性と二重性。(*注1)
その結果は「裏切り」であるとともにすでに「誰かからの贈り物を」受け取っていたということだ。
それもまたあのルールがもたらすものだった。

*注1)
1番目の戦いと2番目の戦いの同時性と二重性。1は2のためであり、2は1の未知の誰かから託されていなければ成立しない。1=2はともにすでに見知らぬ誰かがすでに始めていなければ成立しない。まさに「卵が先か鶏が先か」である。1と2は同じものであるが誰かに託されている面と、誰かに託す戦いであるかをどちらかに明確には割り振れない。誰かにとっての1の側面は誰かにとっての2の側面であり、その逆も相互に成り立っている。


🐣AIねいるはタマゴから孵る世界でアイに逢うか?

わずかに相貌を変えただろうか。
フリルは現実の欠かすことのできない構成要素だった。だから消えることはない。エロスの戦士とタナトスが戦ったところでどちらかが消滅することはない。できない。だからそんなものは描かれるはずがないのだ。現実の世界は変えられない。仮に可能だとしても実際どう世界を変えるべきかなどわかりはしないだろう。こんなふうに現実は、世界は廻る。少女たちは廻り続ける。ときに勇気を出して。誰かを裏切って。それは同時に廻る。

『特別編』はこの現実を一変させる世界のシステムの見方の転換をただそのままに描いた。
『ワンエグ』がフィクションならば、そこで描かれた世界のルールの露呈と困難な現実に立ち向かう勇気をこちらの現実に越境させることができるのは、もちろんそれを見届けた者たちであるはずだ。

あいるの身代わりとなったねいるは通常の少女のように自殺したわけではない。エッグから孵ることも彫像となってもいないはずだ。なにより人間ではなくAIだ。全くの未知の世界のシステムの綻び。その先は描かれない「ルールの外」だ。お互いの願いが裏切られないそんなルールの外である新たな世界の可能性は、アイが駆けるその先に、だからこそ、あるはずだ。


本来の『SSSS.DYNAZENON』レヴューの導入となる『ワンダーエッグ・プライオリティ特別編』は以上となる。次回第2回は本編(実際に読まれた)両作品評の全文紹介である。⬇

*参考に『特別編』の3ヶ月前の時点での1位に挙げたアンケート全文を掲載しておく。
こちらは動画内で全文読んでいただいた(お疲れさまでしたm(_ _;)m)。
いま聞くと、あえて説明しない作風と世界のルールの不透明さを魅力として語り、それについてをお話していただいていたが、それをすっかり忘れたのか何なのか、今回は一点その謎の解明に魅了されてしまっていたことに気づく。この豹変ぶりもなかなか興味深い経験だった。
今回は秘書田辺がアイたちに見せたねいる「夢」に希望を見出したかたちとなったが、そちらも逆に前回ではわかりやすい悪夢に期待を抱いていたようだ。


『ワンダーエッグ・プライオリティ』

終始レティサンス(黙説法、故意の言い落し)で語られるにも関わらず視聴の強度を持続させた、重くのしかかる背景と状況に反して、朝露のようにみずみずしく、生きた画作り、鮮やかな色彩がまず素晴らしい。

物語の始まりから終盤まで膨らませ続けた諸々の謎と伏線、キャラクターの帰趨を宙吊りにしたまま特別編という最終回に残した(のか?)からこその1位なのかどうかすらよくわからないが、とにかくどこかにある偏愛回路を刺激してくれた。初回がはじまったときから1位にするつもりだった作品。

写実的でリアルな風景描写とキャラクターの仕草と掛け合いから、年代的技術的にありえないようなSF設定(と奇抜な決めゼリフ)への突飛な飛躍のギャップを架橋しているのは何か?
それは物語内のエッグの世界と現実世界を相互に唐突にカットしてつなぐという編集による時系列のシャッフルが、切断による断片を視聴者が主体的につなげることを促すことに成功しているからこそ。
エッグ世界と現実のギャップ、虚構内リアリティのギャップを視聴者への情報の与え方という別レイヤーのギャップと同期化することで自然に馴染ませたことが本作の魅力を唯一無二のものにしている。
物語内のギャップである様々な謎が深まるばかりで一向に収斂していかなくとも、そこから振り落とされないように掴んで離さないようにライドさせること自体が謎解きの代替になっている。
かすがいとなる視聴者を信頼することで可能となる不親切でありながら深夜アニメとして類例を見ない構成は、作品を信頼する視聴者がその構成を可能にしているというループをなす。さらにその構成の成立がエッグ世界と現実を往還する物語を最適な形で語ることを可能にする。

我々視聴者は作品を見ながら何度も覚醒する。
というか、たんに寝ぼけ眼の経験をする。「あれ?いまここどこだっけ?いつだっけ?どうなったんだっけ?」という具合に戸惑いを覚える。
その夢見心地がこの作品の快楽ではあるが、それが快楽足り得るのは我々がいつも必ずキャラクターたちより遅れて現実で起きたことに気づかされるからだ。
アイたちキャラクターは寝ぼけない。
夢とエッグ世界と現実を峻別している(かのように見える)。もしキャラクターが現実に帰ったことに彼女たちが気づけなくなったならば物語は直ちに悪夢となる(それが死者を生き返らせるということではないか?そしてフリルの死への誘惑?)。
しかし意地悪なことに、その悪夢こそが視聴者がキャラクターたちに期待するお話の面白さであったりする。
それでもキャラクターと視聴者の覚醒の前後関係の立場の逆転、というメタ視点に立つ優越が、お預けされた謎の解決を手に入れるということだとしても、最後には同時にきっと、(バッドエンドを望まないのであれば)キャラクターも現実と夢とエッグ世界が混交した悪夢から現実へと帰ってくるはずだ。

ここで現実とエッグ世界に「夢」を差し挟んだのはその言葉の意味の多義性が今後を占うための触媒となりそうだからだ。
誰かに見せられた夢という願いは破綻するか、裏切られ利用される予感に満ちている。つまり現時点で桃恵リカアイねいるは後者のふたりが小糸の謎を残すとともにワンダーアニマルの死を経験していないという差異がある。
アイねいる蘇りを願うふたりとの関係からなにを導き出すか、それとフリルの思惑と彼女に託された夢の交錯から何が生まれ落ちるか?焦点はそこに定まったように思える。
おぼろげなアイの願いと「自分のため」という「とりあえず」の明言のねいるの目的の対照にもそれは関わってくるだろう。

さて、アイねいるリカ桃恵はどういうかたちで現実に帰ってくるだろうか?その時なにを持ち帰ってくるのだろうか?
ラスト1話はこちらの思惑をどう裏切ってくれるのか、そこを期待したい。

SSSS.DYNAZENON』が登場する第2回はこちら。⬇


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