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ものに思う

自分で打って見失ってしまったボールを探さないのに驚いた。いや、別にそんなに大変なところに打ち込んでしまったわけじゃない。ちょっとした草の茂みに紛れてしまい、見つけられなかっただけだ。探さなかったわけじゃない。取りにいってそこになかった。ちょっと草をどけてみたけど見つからなかった。

どうするのかな。

あるまで探すものだと思っている私には、想像にもできなかったことだった。すぐにあきらめて、新しいボールをかごのところに取りに来た。
いやいや、そんなことが許されるはずもなかろう。

今、ボールは一つ500円。かごにいっぱい入っているボールも、一つ一つ大切なものだ。

「あったの?」

誰にも見られていないと思っていたのだろうその子は、びっくりした様子で下を向いてしまった。

***

マスクが必需品となった今、どこかしらおしゃれアイテムとして進化を遂げているようなところも見受けられる。どうせしなきゃいけないんだから、それはナイスアイディアだろう。柄にこだわってみたり、マスクチャームを付けてみたり(洗濯するときは外してから出しておいてください。危ないです……)。
スポーツメーカーも蒸れないマスクを発売し、一部では抽選で当たった人しか購入できないアイテムとなっている。
我が家も見事当選し(倍率はそこまで高くない……)、おしゃれなマスクがやってきた。

不織布のマスクは手に入りにくいこともあり、手作りマスクや購入したマスクを繰り返し洗濯しながら使っているのが、最近の当たり前の日常である。
大手スポーツメーカーのそのマスクは、確かに蒸れず使いやすい。
何度も洗濯して、大切に使っている。

が。

最近、その中の一つを見かけない。
「知らんよ。」
簡単に言う息子。
「ちゃんと探さなきゃ。」

ようやく重い腰をあげて、ズボンのポケットやら上着を探し始めた。どうだろう、探し始めて2分から3分。気づいたらまた、さっきまでいた場所でくつろぎ始めた。
「あったの?」
「ない。」

***

ごまかそうとしているとは感じない。ただ、そこに「ない」だけだ。だから、他にあるものを使えばよいと。明らかにズレている。私の感覚とは大きくことなる。

直して使ってきた。穴の開いた靴下はつぎはぎして使ったさ。
確かに今はそんな時代ではない。学校に持っていく雑巾でさえ、100均で買って持っていく時代だ。使い古したタオルを最後に雑巾にして“使い倒した”時代ではもうない。

しかし、感覚は残っている。ものを大切に使おう。最後まで大事に使おう。ましてや、ボールやマスクは買ってもらったものだ。大事にするのが当たり前だし、なくすなんてもってのほかだ。
万が一なくしてしまったら、正直にそれを伝え謝る。
正直に言えなかったときもあっただろうが、そこには後ろめたい気持ちが必ずあった。自分が良くないことをしていた自覚というものがあった。

今、それを感じないのだ。

コロナのせいで苦境に立たされているとはいえ、ものが周りに溢れかえっている時代。それは、使い捨ての時代と言えてしまうのかもしれない。現代の子どもの一面から、そんなことを感じてしまった。
使い捨ての時代なんて、あって良いはずがない。

ものを大切にするのも、人を大切にするのも、自分を大切にするのも、根本的には同じはずなのだから。

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