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とてもわかりやすい どう見えているのかを想像できていなかった人へ

これはとてもわかりやすい挿絵だった。

発達障害と一言で括ってしまうのは簡単だが、その障害の種類・程度などはまさに人それぞれである。最近では、某局の元アナウンサーで現在はオーストラリアに住む女性が、自信がADHDであることを告白した。彼女は、聡明で舌鋒鋭く、討論番組などでは鋭い切り口から自身の主張をバンバン論じていた。自身が発達障害であることを告白したのにも驚いたが、それよりも、その告白内容を読むにつれて、私自身にもかなりあてはまることが多く、やはり自分もそうだったのかなと思わずにはいられなかった。

だが、多くの場合外見からは想像できないのが発達障害を抱えている人の悩みであろう。ADHDとかLDとかDCDとか言われても、ADHDなどはようやく認知されてきたところであろうが、その他のものはそれが一体どんなものであるのか、詳しく理解している人ばかりではないだろう。日本語に直してみれば、学習障害とか発達性協調運動障害とか名が付いているので、どういったものであるのか想像はできるかもしれないが、それでも理解されているかと言われると、残念ながらそうではないのではないか。

バリアフリーという言葉が定着して、街の駐車場には車椅子マークのスペースが当たり前に作られている。体に不自由がある人のために健常者と呼ばれる人が道を譲る。多くの場所でスロープは設置されており、公共の場所では段差がほとんどなくなっている。

では、心に障害を抱えた人のためのバリアフリーはどこで見ることができるのか。

残念ながら、見た目で判断されてしまいがちな世の中では、パッと見ただけではその人が障害を抱えているのかどうかなんてわからない。前出の元アナウンサーは、有名大学を卒業し自己表現を豊かにしているようにしか見えなかった。まさか彼女が発達障害を抱えているなんて思いもしなかった。

さて、自閉症の娘と一緒に買い物をする母親の話。
これが事実であり現実であろう。記事中の挿絵は、この娘さんの真実を想像するのにとてもわかりやすいものではなかろうか。
こういった書籍は多く出版されているが、ネットニュースとして見られるならそれは有意義なことだと感じる。

『私は発達障害です』などという名札をつけて歩くことなどできようもない。ならば、人を疑う前に、何か理由があるのではないかという考えを巡らすクセをつけたい。
車椅子に乗っている人が困っていたら声をかけよう。
でも、見た目でわかる人ばかりではないのだ。ならば、見えない部分を補完することが、誰にでもできるバリアフリーなのではないだろうか。
心にゆとりをもてる人でありたい。


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