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個性の尊重とのバランス オールマイティーを求める矛盾

 M-1という漫才界のジャパニーズドリーム。いったんなくなったこともあったが、言わずと知れた番組である。視聴率は実に30%を越えることもあるというから、単純に考えて3000万人以上の人たちがこの番組を目にしていることになる。「テレビ離れ」が言われている昨今、この数字はとんでもない数字なのだろう。
 この番組の過去の優勝者たちは、この番組の「優勝」をきっかけとして、飛躍的に仕事が増えたそうだ。『チュートリアル』や『サンドウィッチマン』古いところでは『フットボールアワー』とか『アンタッチャブル』の面々も番組をきっかけに我々もよく目にするようになったのではないか。(これを俗にM-1バブルというらしいが……)
 その年の優勝者は『NON STYLE』である。見事な漫才を繰り広げ、見事優勝を勝ち取った。当然2009年度のテレビ界は『NON STYLE』に注目することになるだろう、と思っていたのだが、そうでもないようであった。
 M-1で優勝したから当然知名度は上がる。しかし、それだけではきっとダメなんだろう。
 今、何が求められているのか。

 M-1優勝者「NON STYLE」はメディア露出の少なかった反面、準優勝者『オードリー』は着実に認知度を上げていた。
 関西の人が主催をした大会で、関西の人が優勝するのはまったくおかしいことではない。予選審査の不透明性とか、そんなことは言及するつもりはない。優勝者は、もちろん優勝に値するだけのものを披露できたのであろう。しかし、その場の観客の反応と、その後の視聴者のニーズが、M-1に優勝したこととは必ずしもイコールではないことを物語っているような気がする。
 当時M-1の直後は、明らかにオードリーの方が露出が多かった。「関西人の好み」によって優勝者は決まったが、日本全国のお笑いを好きな人たちが、全員「関西人の好み」と同じだったわけではないようだ。(ちなみに『オードリー』はあのスザンヌと同じ事務所であった。)
 お笑いブームとして、毎日のようにお笑い番組が見られる。ネットでは、テレビに頼らなくても好きな時間にいわゆる「ネタ」を見られる。
 見ている我々の目も肥えてきたのだろうか。優勝という肩書きだけには左右されない何かを身につけてきたように感じる。

オールマイティはいらない、プロフェッショナルがほしい はもう古いのか

 最近のお笑い番組は二つに分かれる。
 ひとつは、いわゆる「ネタ」をたっぷりと披露する番組。しかし、たっぷりというのは無理なようだ。持ちネタをカットしてテレビサイズで披露するしかない。
 もうひとつがいわゆるバラエティ番組と呼ばれるもの。これは、この中でも2種類に分けられる。
 一つめは、ある程度認知度の高いタレントに、おいしそうにご飯を食べさせ、「おいしい」と言わせる。そして、それをスタジオで見ていた別のタレントが、うらやましそうにそれを見る。で、適当にコメントをのせる。
 二つめは、タレントたちの一般人とはかけ離れた生活を披露し、それに気の利いたツッコミを入れるか、気の利いたコメントをのせる。この二つである。
 いつの時代も、ニーズに対応していかなければならない。需要に対して供給できるものだけが求められる。今の時代は、それが利益へと繋がり、富を得ることにもなっている。

 となると、富を得ようとすると、「ネタ」が上手なだけではダメだということになる。一道万芸に通ずとは宮本武蔵のことばだが、一芸に秀でているだけでは通用しないようにみえる。いやむしろ、芸人として「ネタ」は披露しなくても、気の利いたことが言えれば良いのか?ということにもなろう。それが「芸」と言えばそれまでなのだが……。
 つまり、どのような場面・状況においても臨機応変に対応できるオールマイティさが求められているように思えてならない。狭く、深いだけではなく、広く浅い知識が求められている気が。

新学習指導要領の中で国語科が求められているもの

 ということで、ようやく本題である(本題が少しだけの記述にとどまり、頭でっかちで申し訳ないが……)。
 国語の教科書をめくると、自分が学習してきた(?)ものとは種類がまったく違う。誰しもひとつやふたつ、心に残るお話があると思う。例えば『スイミー』だったり、『サーカスのライオン』だったり。あなたはどんな話がまず真っ先に頭に浮かぶだろうか。
 いろんなお話が思い浮かぶだろうが、それは、ジャンルとして物語と呼ばれるものが多くはないだろうか。
 教科書には、他に説明文とか随筆とかジャンルは多岐にわたるのであるが、最近ではパネルディスカッションとかバズセッションのやり方の解説まである。スピーチタイムの奨励であったり、むしろ「自分を表現すること」に重きを置いた内容になっている。
 しかし、教科書の厚さは薄くなっている。ということは何かが削られている。そう。物語がない。一年間に三作品触れられれば多い方。かろうじて『走れメロス』は残るらしいが……。
 国際社会で通用する人間を育てるためには、自分を表現できる人材を育てることが必要なんだそうだ。今まで追い求めてきたオールマイティな人材でもなく、自分という個性をもつことでもない。

 そこだけを求めて人が育つのであろうか。心が育つのであろうか。

 上に長々と述べてきた人たちは、オールマイティといえども、「一道」を突きつめた上での話だろう。
 勘違いしないでほしいのは、冒頭(と言ってもかなり長いが……)で述べた人たちはいきなり一道を突きつめようとしたのかということだ。幅広い選択肢のなかから自分なりの一道を極めはじめ、そしてそれが万芸に通じたのではないか。やはり、武蔵のことばは真理をついているのだ。
 自分を表現するためには、物語を読み味わう力も必要だろう。そして、それを思いとしてまとめるコメント力も必要だろう。それらの力なくして、どうやって自分を表現するというのだろう。いや、自分の何を伝えるというのだろう。
 まるで、ものを作る作業は外国でやるので、その交渉だけをすればよいと言われているようにさえ思えてしまう。安い賃金でものを作ってくれる外国人労働力があるから、そこはそれでよい、のか?それで、「本当に良いもの」を作っていけるのか。発明するだけでよいのか……。
『NON STYLE』より『オードリー』の方をよく目にしたのは、「ネタ」という一道の上に「個性」というものがあるからではないか。そのどちらかだけでは、薄っぺらく感じてしまい、すぐに飽きてしまう。
 現場では何が求められているのか。幅広い知識を知った上で、そこから狭く深い知識を追い求めていき、それが他の知識へと波及していく。そのくり返しが学習することへの意欲を育て、そしてそれが、人とその心を育てていくことに繋がると思うのだが。

 大相撲のある親方が、子どもに「どうしておすもうさんはちょんまげをしているの?」と聞かれたときこう答えたそうである。
「それは、ただのデブと間違われないようにするためだよ。」
 なんと気の利いたコメントだろうか。もちろん親方になるような人だから、一道を突きつめたのは言うまでもないが、なんともウィットにも富んだコメントである。
 教室では、世の中のニーズに応えるようなことをしているだけではいけない。むしろ、様々なニーズに臨機応変に対応できることの方がおもしろいと思うのだが。
 「一発屋」としての地位を気づいた小島よしおが一発で消えていないのは、彼が一発屋ではないからだ。だけど、世間は彼を「一発屋」として見ているだろう。この矛盾は何だろうか。実におもしろい。だてに某有名大学を出ているわけではない、かな。彼もまた、学習して能力を得た一人なのだな。もちろん、NON STYLEのネタは素晴らしいことは言うまでもないことも付け加えさせていただきます。

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