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学校は利益を追求する職場ではないという弊害

校則には本当におかしなものがたくさんある。あるというより、残っているという方が正しい言い方なのかもしれない。
そう。残っているのである。

以前、ツーブロック禁止の話をnoteに書いた。その答弁だけ読むと、ああ、おかしな話だとは感じてしまう。しかも、予算特別委員会で何をしているんだとも言いたくなってしまう。

学校にはおかしな話がたくさんたくさん溢れている。矛盾しているところも多い。これは学校に限ったことではないだろう。
一般的な企業等でも、業務をこなしているうちに、?・?・?となる時は少なくないと思う。改善すべきところは改善すべきであろうし、なくせるものはなくせば良い。コストカットをしながら収益を上げていく。

しかし、学校は利益を追求する職場ではない。だから、始末が良くないところがある。
その最たるものが、変わろうとしないことだ。

学校における多くのことが、職員会議なるもので決定される。(正確には、職員会議は校長の機関のひとつであり、校長が教員に均等に仕事を割り振るための場に過ぎない。)
このとき、例えば今年の運動会はどうやって行うかとか、授業参観は何をするのかとかいう提案がされるのだが、ある問題がある。
まず、昨年度と同じ提案がされるというところだ。

一つの行事ごとに反省はされている。もっとこうした方が良いとか、こういうやり方の方が効率が良いとか、意見は出される。しかし、次年度にそれが生かされることはほとんどない。
なぜだろうか。

まず、切迫感ないことが考えられる。先にも書いたが、学校は利益を追求する会社ではない。利益を追求しないということは、反省をして次に生かす際に、良くないことを振り返るが良かったことは振り返らないことが多い。利益など見ていないからだ。
だから、やってもやらなくても変わらないという考えが根本にある
どこが、子どものためだろうか?

次に、自分には関係ないという風潮がある。これが、以外に根強い。特に歳を重ねたベテランという立場の人と、完全やる気をなくした若い若い教員に見受けられる。
教員は毎年校務分掌という形で仕事が割り振られる。一番わかりやすいのは“担任”だろう。○年○組の担任の先生、というのも仕事の一つである。
その他にも、例えば運動会担当の体育主任とかいうのがそれだ。
往々にしてそれは、二年連続全く同じポジションということはないのが教員だ。
企業であれば、担当の部署とか地区とか割り振られており、異動になることはあるが、1年間という短いスパンではないところがほとんどだろう。
しかし、教員は全く逆である。1年間でどんどんと変わっていく。
そうなると、運動会を担当していて、来年はこうするともっと良くなると思っても来年は担当を外されるため、それを実行することができなくなる。次の担当の教員がやることになるが、そんな引き継ぎをすることはほぼない。そんな時間はないし、利益を求めてないので、運動会などの行事は無事に終われば良しだからだ。

そうなると、面倒くさいと思われることは全て後回しになっていく。やらなくてすむことはやらない。そんな時間はない。

どこが子どものため?と思う。現場の教員も思っている人はいる。間違いなくいる。
だが、そう思ってる人は学校を動かす力がない。発言してももみ消されてしまう。
厄介なのは、昔は熱い血を滾らせていた先生が、教頭とか校長になると途端に冷めてしまうことがあることだ。これがまた、本当に現実的に多い。
力を持ったときは、輝きを失っている。いや、輝きを失わなければ力を持つことはできないのであろうかとさえ思う。

だが、そんな重い重い校長のお尻を持ち上げる方法がひとつだけある。

校長は、親に言われると動く。大げさすぎるほどに。だから、それに感づいている親は言いに来る。
言われなきゃやらないけど、言われたらやる。
親にしてみりゃ、言ったらすぐにやってくれた、という経験が増えていく。
(もちろん言ってもどうにもならないこともたくさんある。)
そうなれば、モンスターが生まれてもおかしくない。モンスターを生み出したのは学校なのかもしれない。

そうではない学校にならなければ、教員の未来はないだろう。
現場にいるのだから、親よりも教育はプロフェッショナルのはず。気づきも早ければ行動に移すのも早いはず。
子どもの利益を追求する学校になれないかな。
数字か何かで“学校の利益”が見えれば良いのに。

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