ブリの刺身が怖い
近内悠太著『世界は贈与でできている』を読んで、祖父から届けられるブリの刺身や、母から届く切り干し大根なんかのことを思い出しました。それはもうグルグルともやもやと頭の中をめぐりました。
「お礼の連絡をしておきなさいね」
祖父からの届け物を持って母はいつも言う。そう言われるたびに、ズーンと胸が重くなる。「わあうれしい」とか「お礼はなんにしようかな」なんて思う間もなくこれを言われると思考が止まる。
「これは贈与だ、お前はこれを受け取れ」と明示的に語られる贈与は呪いへと転じ、その受取人の自由を奪います。
これがしんどく、すぐに忘れたいので、3秒でお礼のLINEを送ることにしている。
ぶりはおいしくいただく。甘い醤油をつけて、いただく。
ぶりはおいしい。
祖父や母と、あまり気が合わない。
今近くに住んでいるが、本当は遠くへ引っ越したい。
しかし母や祖父の「ここにとどまってほしい、ずっとそばにいてほしい、おかずをあげられる場所に いてほしい 」そういう願いを届け物があるたびに受け取ってしまう。
贈与の呪いは、相手がそれに気づかないうちに、相手の生命力を少しずつ、奪っていきます。
できる限り、呪いと思わずにいてあげたい、と思う。
「いらない」と断って、祖父が怒ったことがある。
私が子どもを産んで、入院中に持ってきてくれたお菓子だった。私が受け取ると、祖父は奇妙なことを指示してきた。「その菓子をこういう風に人に配れ、来てくれた人に押し付けてでも持たせてやるんだ」お見舞いにきた人へのじいちゃん流のマナーを教えたいらしかった。
しかしわたしは産後でカッカしていたし、全然やりたくなかったので断った。
僕らはときとして、贈与を差し出す(ふりをする)ことで、その相手の思考と行動をコントロールしようとしてしまうのです。
「私は、やらないよ。私は、おじいちゃんじゃない」
「じーちゃんは、そのためにデパートで買ったんだぞ」
「じゃあ、いらない」
「お前のために用意したのに!」
重い、重いんだじーちゃん。いらない、それは欲しい物じゃないんだ、じーちゃん。何しに来たんだ、じーちゃん。そんなに大きな声を出して、怖い顔をして。
じーちゃんはそれから10秒で帰った。
それから2年経って、その時生まれた子どものことを祖父はとても可愛がってくれている。私もにこにこして接する。そのときのことは、どちらも謝っていない。
老後、責任、感謝、服従。
贈与を受け取ってくれるということは、その相手がこちらと何らかの関係性、つまり「つながり」を持つことを受け入れてくれたことを意味します
だからわたしは、贈与がこわい。
先日、結婚6年目で写真だけの結婚式をした。
そのときに、祖父からLINEをもらった。
「ゆりおちゃんの幸せが、おじいちゃんの幸せです」と書いてあった。
あのクソ頑固じいちゃんから、すぐ「バカだな」と言うクチから、そんな言葉が。商売がうまくて、ちょっとお金持ちで、でも友達が少なくて、お金を与えることで親族や家族を支配してきたじいちゃんが。トイレットペーパーを逆向きにつけただけでおばあちゃんを怒鳴り散らしていたようなじいちゃんが。
大嫌いだった。
でも、この人はこの強さで、私たちを守ってくれていたのだろうと思った。貧しさから。飢えから。暴力から。寒い風や、雨や嵐から。
そして多分、ただの不器用な人なんだろうなと思った。
おじいちゃんのそのLINEは、何も見返りを求めていなかった。そうしたら、おじいちゃんが私が小さかった頃からしてきてくれたことを、そうやって思えた。
この贈与は私のもとへは届かなかったかもしれない。
ずっと受け取れなかったけど、やっと受け取れた。
だからといって、いきなり祖父を大好きになるということはない。
ブリが届くとびっくりする。冒頭に戻る。
我々は呪いとともに生きる。
「美味しいものを食べさせてあげたい」と思ってスーパーのレジに並んでくれただろうじいちゃんの背中を想像して、その嬉しいところだけ、受け取ってもいいかなあ。
それが、私の成長だ。