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感情を自分だと思うなよ

愛しているという状態と好きである状態とは全く違うことであるーーというお話です。これはとってもとっても重要なことです。好き・嫌いという感情はとても表面的なものであり、状況が変われば、それは簡単に反転するものです。



食べ物や洋服や音楽の好みは変わっていきますね?理想のタイプなんてのも意外と変化します。イケ好かないヤツだと思っていた人が最愛のパートナーになるーーなんてことも、そこそこある話だと思います。大嫌いな人のことを永遠に大嫌いだとは限りませんし、大好きな人を永遠に大好きとも限りません。



好き・嫌いという感情や感覚は「一時的な状態」に過ぎないのです。いわば、水が気体・液体・固体と変化するだけの話です。水のエッセンス自体は変わりません。<好き>が愛していることにはならないのです。相手が自分を愛している時は好きだけど、浮気をされたら憎しみに変わる・・・それは条件付きの愛であり、エゴのレイヤーです。それは愛なんかじゃないんです。(地球人生とは何と深い学びでしょうか・・・)



こんなに不安定で変化しやすい感情というものを、自分そのものだと認識してしまう<不思議なクセ・認知の歪み>を、私たち人類は持っています。感情は私たちの一部ですが、私たちそのものではありません。私たちの本体は感情でも思考でもありません。私たちの本体は命そのものであり、自我を離れた場所にある純粋意識です。



感情を自分自身だと誤認することで、多くの生き辛さやボタンの掛け違えを生み出してしまうのです。嫌いだと思ってはいけない、否定してはいけない、清く正しく美しくあらねばならないーー本当にそうでしょうか?それはそんなに重大なことでしょうか?



ユリシスは嫌いなものは嫌いです。人間としてどうよ?と思えば「それおかしいだろ」と言います。言い方や礼儀というものは必要だと思いますが、自分の感情や感覚を表現すること自体は、別に大したことではありません。ただの状態だからです。流れゆく時の中で揺れ続ける一状態なのです。




だからこそ、嫌いですと言われても、否定的な言動を向けられても、傷つく必要なんてありません。だって、誰からも嫌われないなんてこと、ありえないじゃないですか。自分に嫌いな人や苦手なものがあるように、自分のことを嫌う人は必ずいるものなのです。そんなものは、毎朝、お日様が昇ってくる程度のことですよ。



それなのに、嫌いなものを嫌いだと認めること、おかしいことをおかしいと言うこと、怒りや不快感を表明することが「悪」だと思ってしまうのはなぜなのでしょうか?それは感情を自分だと思っているからです。感情を絶対視しているからです。感情を自分自身だと思い、殊更重大視することで、却って、ありのままの感情や多様性を認められないというパラドックスが起こります。それによって、感情がドロドロと停滞して、自分自身の自由を奪っているのです。



愛しているということと好きである状態は全く違うーーこのテーマをとても上手く表現されている記事がありましたので、シェアさせていただきます。【永遠のテーマ】わたしにとっての「好き」と「愛してる」の違い|菅 美智恵 (壇珠-たんじゅ-)|note



そうなんです。愛する努力なんていらないのです。清らかになろうとする必要なんていらないのです。だって、すべてを愛しているのだから。私たちが肉体を持って、この世界に生まれてきている時点で、すべてを愛しているのです。すべてを許しているのです。そもそも愛しているからこそ、安心して嫌いになれるのです。愛なるものは感情レベルの話ではなく、むしろ知性のレイヤーなのです。



愛するとは存在そのもののことです。安心して「大嫌い」「腹立つ」「許せない」を体験しましょう。ポジとネガを分けず、すべてを認めて受け入れ尽くしましょう。大好きと大嫌い、素晴らしいと素晴らしくないの二極の間を揺れ続けることで、やがて第三の極に出ます。



それは、感情と同一化しない視点であり、極性から離れた場所です。それは、ありのままを認め、今ここを、人間である自分自身を、思う存分体験する次元です。どこまでいっても感情の極性はなくなりません。ポジとネガを分ける視点が非常に稀薄になるだけのことです。




みんな~!感情を自分だと思うなよ。感情に使われるなよ。感情を利用するくらいの視点を持って、地球体験=感情を味わい尽くそうぜーーというお話でした♡


シバ神は毒蛇に巻きつかれても、耳元で悪魔が囁いても、全く動じずに自らの鼻先を見つめています。すべてを受け入れた上で、すべての体験を許しているとは、このような意識の状態ではないでしょうか。

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