Omarの話

この間クロアチアのドブロブニクに旅行した帰りに、Uberを使って寮に帰った。

飛行機はルートン空港に深夜に到着し、そこからBaker Streetまでは2時にバスで帰ることができたのだが、その先最寄のElephant and Castleに行く公共交通機関がなかった。次のバスは3時にしか出ないので、寒いロンドンの夜空を過ごす場所はどこにもなく(意外なことにロンドンは夜の12時を回るとほとんどの店は閉まってしまう。パブでさえだ。)、Uberを使わざるを得なかった。

車を見つけるのに苦労をし、追加料金が重なっていくことに軽くパニックを覚えながら乗り込んだ黒のプリウスの運転手はOmarといった。

私はあまり社交的なほうではない(と思っている。こちらでできた友人はそうでもないと言う。)ので、Omarが'How are you?' とたずねてきても'I'm good'とだけ返した。もはや一般常識かもしれないが、こちらの'how are you'には意味はない。お作法として'I'm good'やら'I'm fine'などを返せば終了である。ただ、何となくOmarの'How are you?'にはちゃんとこちらの調子を伺うような空気があった。

旅行を共にした友人へのメッセージを送るためにスマホをいじったのち、ぼんやり車窓の外を見つめていたら、Omarは今度は'How have you been today so far?'と変化球を投げてきたので、私は「おっ」と思った。この質問は明らかに会話をしたがっているサインで、私は旅行から帰ってきたのだと答えを返した。クロアチアにいてとても暖かかったが、それに比べて5月だというのにロンドンは寒すぎると差しさわりのない文句を述べると、Omarも「全くその通りだ」と賛同した。

「この数日でまた寒くなったよ。旅行者も増えているのに…」

いつ頃が一年のうちで盛繁期なのかと尋ねると、イースターごろからだんだん増えて7、8月にピークを迎えると答えてくれた。

「でもクリスマスが一番儲かるかな」

「そうなの?夏かと思ってた」

そこからロンドンの冬の話になり、Omarはいかに寒さは人間の体に悪影響を与えるか、ゆっくりと語りだした。冬になるとみんな室内で暖房をつけて外に出たがらないが、急激な温度変化は体に負担をかける、と言い、少し誇らしげに彼なりの対処方法も教えてくれた。彼は仕事を始める一時間前に暖房を切って窓を開け放ち、寒さに体を順応させるのだという。私がロンドンの冬は確かに体にも悪いが、何よりも日光を浴びる機会がないのがつらいよねと水を

向けると、Omarは待ってましたとばかりにそれについても語りだした。ロンドンにやってきてから、彼は体の節々が痛むようになったという。さらには、彼によると、ロンドンのオフィスワーカーの多くが同じような症状に悩まされているらしい。この痛みは十分な日光に当たらないためにビタミンDができないから起きることだ、とやたら詳しく、楽しそうにOmarは解説する。彼の家族はドバイにいるので、1月になるとOmarは例年2週間ほど里帰りをするのだという。そこでは冬でも暖かいし天気もよいので、滞在中は太陽の下で散歩したり昼寝したりするのだそうだ。

「あなたは健康をすごく気にかける人なんだね」と私がすこしからかうような口調で言うと、Omarは今度は自負を込めて、でもどこかどこかしんみりとした口調で、「昔はスポーツをやっていたから」と答えた。

Omarは昔はクリケットのプロ選手だったそうだ。

'I was a player in my country, and in Dubai, and I came here to play as well'

'Where are you originally from?'

私は尋ねた。こちらの人に'Where are you from?'と聞くのは意外にデリケートな質問だ。会話の切り口としては無難とは言えない。移民として英国に移ってきた人は、たとえ肌の色が白くなくてもイギリス人として扱うべき、という意識が最近高まってきている。特に自分のアイデンティティにも関わる問題なので、失礼な質問にもなりかねない。もちろんこの場合は特に問題がないと思ったので聞いたまでだが、私は初対面の人間にこの話はなるべくしないようにしている。

Omarはパキスタンからやってきたそうだ。なかなかの選手で稼ぎもよかったと誇っていたが、「引退して家族ができてから生活を変えなければならなかった」と言った。

彼は夜間に働いているが、これも看護師をする妻と三人の子供の生活リズムに合わせるためなのだという。日中は妻が子供を学校に送り届けた後仕事に向かい、Omarは夕方起きてくると子供を迎えに行き、仕事を終えて帰宅した妻とそろって家族で食事をとる。その後、Omarは朝5時までUberの運転手として働く。

「私の兄は医者なんだけどね」

Omarはナトリウム灯に照らされたロンドンの夜道をまっすぐ見つめながら言った。

「夜職だけは絶対にするなと言われていたんだ。私も嫌だった。長いこと夜職だけは手を出さなかったよ。兄が言うには、人間の体には時計が備わっていて、その時計は日光を浴びると厭が応にも体の臓器に血を送り出して、活性化するんだ。起きろってね」

「それで日が沈むと、今度は臓器はシャットダウンを始める。夜職はまさにこれの反対をしているんだから、とても不自然なわけだ」

「兄は夜職の人間は十数年しか生きられないと言ってたよ。でも家族のためだからね」

プリウスの中で私たちは黙りこくってしまった。私は沈黙の中で今Omarの語ったことを反芻せずにはいられなかった。

私はOmarの言葉に何か不思議な呪いのようなものを感じた。英語には'living on borrowed time'という表現があるが、彼の話はまさにそんな表現がぴったりくる。限られた、借りものの時間だけ生きる。

スポーツという高貴な仕事に若くから身を捧げ、国を転々とし、人々に称えられる日々を終えると、彼は自分の知らない世界に立っていた。それでも、そこで見つけた女性と人生を共にし、子供を持ち、家族となった。しかし、この地で生きていくには自分の肉体という財産を消費しなければいけない。自分の肉親から死の「予言」を受け、家族のために暗闇の中プリウスを走らせて働く。妻子と過ごす時間は少ない。

季節が寒い冬から夏に移り変わるにつれて、ロンドンの日没はどんどん遅くなり、日の出は早くなる。彼は家族に別れを告げて、明るい夕空のもとで浮かれる人々を横目に慎重に車を走らせ、短い夜を超えて朝を迎える。自分の奥底に備え付けられた体内時計に逆行して、彼は生きている。そして、普通の人よりも早く死ぬ。彼の愛する家族は生き続ける。

彼のゆっくりと丁寧に紡ぎだされる言葉の端々からうかがえる知性と優しさは、私の心をひどく打った。そのために余計に、私はOmarの境遇がかなしくて仕方がなかった。



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