流智鮟鱇

生まれも育ちも岐阜。 何が好きか?では無く、常に「自分が好きと思ったものが好き」が基本…

流智鮟鱇

生まれも育ちも岐阜。 何が好きか?では無く、常に「自分が好きと思ったものが好き」が基本。 自分の「好き」を信じる。

最近の記事

怪獣映画

昭和40年代の「ぼくらのゴジラ」を観て育ったせいか、リアル追求型の怪獣映画には飽き飽きしてます。 もはや夢も希望も無いとはこのことです。 ましてやここに来てメジャーな映画賞にまで名前が挙がって来て、いやはやもはや「ぼくらのゴジラ」など誰も見向きもしないのか。 流星人間ゾーンにゲスト出演したゴジラに狂喜乱舞した時代が良かったね。 しょせん怪獣映画なんてのはゲテモノで子供のもので良いんですよ。 ゴジラに限らず特撮やらアニメが今や大人にも人気で堂々と「好き」などと言っちゃう人

    • 1.1.はどうする?

      前に書いたのは、「1.17.」とか「3.11.」とかの話。 今日は2月1日という事で各メディアは「1ヶ月経った」という事でそれ関連の話題がいっぱいです。 相変わらずメディアなんてのは商売なのでいい加減なものだと感心してます。 さて、そんな今年の「1.1.」 従来だと冒頭の「1.17.」とか「3.11.」とかと同じ扱いになるんでしょうか? ここまで1ヵ月間各所で大騒ぎしておいて来年以降は無視ってワケにもいかないんじゃないでしょうか? そうなると、毎年「1.1.」の話を出して

      • 好きと嫌いの共演

        某人気歌手の他者とのコラボに対して文句言ってる話が界隈で騒がれていますが、当の某人気歌手さんが言われてる事が真っ当だし100%理解出来るのですが。 要は自分が大好きで応援してる方があろうことか自分が大の苦手と言うか嫌いというレベルの方がコラボしてしまって、自分がとても観たいと思ってるエリアに観たくない人が入って来る事に対して憤ってしまうと言う事だと思うのですが、これは残念ながら私自身にも経験があってやはりそんな時は観たくない人を批判してしまう気持ちになるのも理解出来てしまうわ

        • 多分正解はあっち側

          noteに地元岐阜のアレコレに文句ばっかり言ってるなと改めて思う。 地元活性化を謳い文句にしたイベントだの映画だのの話だ。 「おかえり、こっち側の集い」というテレビ番組を見てて、やっぱり地方と言うのは都会(あっち側)への憧憬という呪縛からは逃れられないものなんだと思った。 結果どうしても地方都市はなんとか都会のようになりたいと「あっち側」の要素を取り入れて「あっち側」へ行こうとするんだなぁと。 そしてそんな流れを見るにつけ私の天の邪鬼な性質も影響して「あっち側」へ行こう

          9回通った映画

          昨年秋から同じ映画を観る為に映画館に9回通ったんである。 映画は「野球どアホウ未亡人」という昭和の野球漫画か野球アニメ及びロマンポルノの定番タイトルのようなワケの分からないものだ。 とは言えR18的な要素はほぼ無く野球らしき描写はあるものの誰もがイメージするような野球映画でもない。 ワケが分からない。 つまりはそういう映画である。 初見の際の感想は「なんじゃこりゃ〜」であり「ワケ分からん」であり「ヒロイン可愛い」であり「やたらバカバカしくて楽しい」であった。 60分とい

          9回通った映画

          岐阜の映画館と女優さんと

          岐阜市柳ケ瀬にある老舗映画館を舞台にした映画が作られるという話を聞いた。 しかも出演者には以前推していた岐阜市出身の女優さんの名前もある。 かつての私ならすぐに飛び付くような話で可能ならエキストラにでも出たいと思うレベルだったはずだ。 しかしながら今の私はこの話を聞いても何も心が動かなかった。 その女優さんは数年前から推すのをやめている。 SNSでの政治的発言がちらほらあったせいでシラけたのが原因である。 なので最近の彼女の事は知らないが私にも馴染みだった社長の事務所も

          岐阜の映画館と女優さんと

          ぎふ?

          最近の岐阜県も岐阜市もやたらと表記を本来の「岐阜」という漢字を使わずに「ぎふ」を使いたがる傾向にあるのは実に嘆かわしい。 その理由は定かではないが、考えるに読みやすさとか「岐阜」という漢字そのもの特に「阜」という字は一般的にほぼ他で使う事が無い漢字で県外の人で書けない人も多い。 そんな事もあって表記を易しい平仮名表記にしているのかも知れない。 しかしだ。 それならば尚更に本来の「岐阜」と表記して正式な漢字表記を内外にアピールすべきではないのか。 これも最近の世の中に顕著な

          岐阜市

          岐阜市に生まれ育って63年なのでそれなりに愛着はある。 住民税だって何十年も払っている。 しかしながら好きな街かと言われれば否である。 正確に言えば岐阜市の行政がやることなすことが気に入らないので街そのものが好きになれない。 9年間の東京生活を終えて2008年に岐阜市に帰って来てからは特にそんな思いが強い。 2008年から5年間活動した「やなな」というゆるキャラは頑張ったがしょせんはイベント。 イベントで街を盛り上げるなんてのは安直によく実行される手法ではあるが、盛り上

          柳ケ瀬の終わり

          岐阜市の高島屋が来年の閉店を発表した。 これで岐阜県から百貨店が無くなる。 まあ当然の結果だと思われる。 いやむしろよくもここまで続けてくれたものだと感心する。 私が東京から帰郷して来た2008年頃の柳ケ瀬はビックリするほど衰退していてこれはもうダメだなと思った矢先にやななが登場してそれなりに賑わいも見せたが5年で引退。 その後も若い皆さんがあれこれと柳ケ瀬を盛り上げようと奮闘しているのは見かけるようにはなったが結局は一時的なものばかり。 イベントがあればその日には人が集まる

          柳ケ瀬の終わり

          否定か肯定か

          自分以外の誰かの意見とか考えとか、もっと言えば単なる趣味とか それに接した時に否定するってのは割りと簡単だししかも否定の気持ちってのはたいていが自分の正直な気持ちだったりする それに比べて肯定と言うのはなかなかに難しい もちろん100%同意するような場合なら簡単に肯定出来るけどそうで無い場合の方が多いからどうしたって肯定しようと思えばある程度自分の気持ちには無理をする事になるし最悪は全く同意してないけどそうせざるを得なくて肯定する事さえある ある意味、否定は動物的脊髄反応

          否定か肯定か

          見えていない

          小さな子供が公衆の面前でも関係なく大騒ぎするのは親以外の周囲の大人たちが見えていなくて、要はモノと同じなので家に居る時と同じように騒ぐのだなんて事を聞いた事がある。 なのでそんな騒ぐ子供が親以外の見知らぬ大人にいきなり注意されてビックリして黙るのは、それまでは眼の前のモノだったのがいきなり人間に変わるからとか。 昔はそんな大人が近所にいっぱい居たりして子供は社会性を育まれていたとも聞いた。 今どきのSNSもそんな感じなのかも知れない。 SNSでは通常は相手の顔も声も分からな

          見えていない

          傍若無人

          自転車乗りの傍若無人ぶりが目に余る。 先日の「キレる老人」の投稿でも少し書いたが本当に酷い。 もはや100%交通法規を遵守している自転車乗りなど皆無だ。 そもそもが交通法規を知っているのかどうかも甚だ怪しい。 道路交通法を知らない人間が平気な顔して軽車両(自転車)で道路を走り回っているかと思うだけで辟易する。 そもそも自転車が軽車両である認識も無ければ軽車両が何たるかすら知らないのではないか。 軽車両といえど車両なので道路交通標識に従うのは当然だが、その道路交通標識すら見

          シーシーエヌの救世主

          以前に書いた岐阜市の地元ケーブルテレビであるシーシーエヌの話だ。 シーシーエヌに思う事は基本的には2年半前に書いたその投稿と同じではあるものの、最近になって久しぶりに楽しみな番組がスタートした。 「ふたたび歩く岐阜人」という街歩き番組。 担当するのは、あのシーシーエヌのレジェンドである市橋大輔氏。 とは言え、私は彼の時代は東京在住だったので伝説として知ってるだけだ。 そんな彼が20年前にやっていたという「歩く岐阜人」の新シリーズというわけだ。 当時の放送のアーカイブと現在

          シーシーエヌの救世主

          キレる老人

          なんのことはない自分の事である。 今年の8月で63歳ともなれば昔ならとっくに老人である。 老化を言い訳にしようとしてる時点で充分に老化していると自分でも思わないでもないが事実なので仕方ない。 前置きが長いのも我ながら嫌になるが、先日電話の見知らぬ相手にキレまくったのである。 普段の私を見ている人なら、あの温厚そうな人がと思われる人もあるかも知れないが、ガマンしてるだけで元々短気なのである。 そのガマンが出来なくなっている。 件の電話は某有名企業からの営業電話であった。 元

          キレる老人

          1.17とか3.11とか

          批判覚悟の暴言吐きますので常識的な皆さんは回れ右で。 今日は例の震災の日との事で朝からメディア関連が騒々しい。 私にとっては1.17も3.11も私はもちろん友人知人にも特に被害者らしい被害者も居ないので何人の方が亡くなろうが「そうですか」としか言えない。いったい「何人以上」が一斉に亡くなるとこうして毎年のように追悼されるのだろうといつも考える。 何千人何万人が亡くなった日より自分にとっては大切な人が亡くなったその日の方がずっと大切だ。 どうせ亡くなるならこうして沢山の人と一緒

          1.17とか3.11とか

          推し活の流儀

          まあ大袈裟なタイトルではありますが。 初めて有名人のファンになってから多分もう半世紀にもなるのか。 昔は「手の届かない」のが有名人でありアイドルちゃんであったのが、ここ最近ではローカルとか地下とかの対象によっては「逢いに行ける」ようになって。 御多分に漏れず私もそんなローカルな人を推すようになり、メジャーな人を対象にしてた頃には考えられなかったくらいの「近さ」を体感してました。 そうなるとやはり「勘違い」やら「思い込み」が生まれるもので。 「近さ」を「親しさ」のようにも感じ

          推し活の流儀