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立派でない文章を

新年一冊目の本は、武田百合子の「犬が星見た」を手に取った。

彼女がロシアを旅した記録だ。武田百合子も、この本も、名前だけは知っていた。だけど読むのは初めてで、40年ちかく前に書かれたものでありながら古びることのない文章に、心躍らせながら読み進めている。

ロシア旅行記だと思っていたけれど、40年前といえばまだ中央アジアの国々もソビエト連邦の一部なのだった。思いがけず、私が先日訪れたばかりの国、ウズベキスタンの描写が出てきたのは嬉しい驚きだった。今は荘厳な青の景色が広がるサマルカンドも、当時はまだ修復もなされておらずボロボロだったのだと思う。遺産よりも朝ごはんの描写に文字数が割かれているところに、なんだか親しみを覚えてしまう。


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読み進めながら、いくつか反省もした。

最近の自分は、「うまく書こう」という気持ちに囚われすぎていた。ネット上には、「うまい」文章が溢れている。そんな文章と出会ううち、自分も「うまく書かなきゃ」と無意識のうちに焦っていた。もっとハッキリ言えば、「バズりたい」という欲が出てきていた気がする。誰に言われたわけでもないのに、「バズらなきゃ」という謎の義務感を負っていた。

それはまるで、中学生のころ、「イケてる」先輩たちからハブられないようにするために、興味のないアイドルの情報を集めたり、ダイエットしたりしていた自分に重なる。たぶん、その努力自体は無意味じゃない。だけどそれは「本当に」私のしたいこと?

旅行記の更新がどうにも滞ってしまっていたのは、この「うまく書かねば」の意識のせいだった気がする。朝ごはんひとつとっても、言葉をつくして、まるでテレビで見る食レポのように書かなきゃいけないと思い込んでいた。

だけどどうだ。「犬が星見た」のご飯記録は、これ以上なく簡潔である。

○卵
○ソーセージ二本(これはうまい)
○コーヒー(まずい)

こんな具合だ。

その簡潔さも、毎日の記録として積み重なることでだんだん味わいが出てくるし、余計なところで見栄を張らないからこそ、素直な文章がどんどん魅力的に思えてくる。

素直な思いが積み重なる武田百合子の文章を読み進めるにつれて、叱られているような気持ちになってきた。

私がひとり悶々と抱えていた悩みは、「文章を上達させたい」と言えばなにやら聞こえがよいけれど、よくよく近づいてみたら「文章がうまい人と思われたい」という欲にすぎなかったのだろう。もしかすると、「note映え」のような概念を自分のなかで勝手に作り出していたのかもしれない。


「いいことを言わなきゃいけない」「うまく書かなきゃいけない」という自分の中の械を、早いところ取っ払ってしまいたい。新年だし、目標としてちょうどいいかもしれない。

笑いを生み出せなくても、エモがなくても、心に浮かんだことに誠実な文章を。親しい誰かに宛てた手紙のように。なるべく、見栄や下心を捨てて。


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