差別を謝られて逆に気分を害した話

この間BLMデモに行ってきた。ちょうど出ようかな、というタイミングで雨が降ってきたので面倒くさくなった瞬間に行くことを決意した。差別は雨でも休んでくれない。カメハメハ大王じゃあるまいし。

そしてたくさん人がいてびっくりした。主催側も3千人ぐらい用の準備(スタッフとか)しかしていなかったところ、結局5万人ほど参加した、と報道された。この国において差別はどちらかとないことになっている、というか米国ほどのレベルで身近ではないと思っていた。
でも同時にがっかりもした。やっぱり特定数の人たちには流行りのイベントでしかないことをこの目で確認できてしまったから。

ビール片手に散歩気分な人が多かった。暑い日にビール缶持ち寄ってピクニックなんて季節柄にも景色でしかないけれど。立ちションもデモの最終地点である教会前の公園で何人もみた。お酒の飲みすぎやん。
行列の通ったあとのゴミがすごい。即席プラカードの切れ端、スーパーの有料ビニール袋、割れたお酒の瓶。
屋根付き電停に登る若者、電話ボックスに登って写真を撮っている大人。私が見かけた中ではどちらも白人しかいなかった。
(※白人だと一概に決めつけられないことは理解している。たぶん。)

そりゃ数合わせとまでは言わない、統計学的にぱっと見デモ参加者が多いほうが国内外にインパクトはあるのかと思う。環境デモ等と同じで、実際にできることが他にもたくさんあるけど、行かないよりは行くほうがマシ、というか。
しかし、デモ全体の印象に気をつけることも大事ではないかと感じる。

段々暖かくなってきて、水分補給のために飲み物を持っていくのはとても賢明だよ、ただそれがアルコールである意味は全くない。会議に例えてみて、私は社会人ではないしすべての職種に精通しているわけでももちろんないし、ただマナーとして真面目な話をする時に話し相手が酒気を帯びていたら超イライラするなって話だ。本気にすることが難しくならない?酔っ払いが喚いていても誰も相手にしないでしょ?
アメリカでの建造物損壊等が報じられるなか、人混みから出るゴミなんてなんともないじゃないか当たり前じゃないかってネットに書いてあるのもみた。
当たり前じゃないよ。私が住んでいる街にはほかの首都圏の街に比べて珍しく街中にたくさんゴミ箱が設置されている。東京でもサリン事件を境に撤去されたアレだ。大都市ではなくとも国連や世界中から人の集まる文化遺産がある街なのに、あんな数の爆弾装置の隠し場所(仮)を残してあるのだ。普通にゴミはゴミ箱に捨てろよ。なんなら分別しろよ。自分のゴミの始末は自分で、とか言ったら語弊がありそうだけどさ。
人混みのなかで高いところに登る意味ってなんだろう、と考えたら、自意識過剰の女子大生(つまり私)的には、目立つため&映える写真を撮るため、としか思えない。それはどうしても必要なのだろうか?現代においてSNSがどんなに大きな役目を持っているかは言うまでもないけれど、そのぶん気にしていますアピール、参加していますアピールのほうが勝っていないかな。一時期ただ黒いだけの画像がたくさんタイムラインに現れたやつ、流行にのっただけではないと言い切れる人がどれぐらいいるんだろうか。なるべく多くのいろんな人の目に触れることで注意喚起をする意味では興味深いともいえるけど。
高いところに登ることによって少し目立つと、各種メディアの被写体になるチャンスが大きくなるかもしれない。撮る側も、目線や視界の違う写真や動画を提供すると、みた人の気持ちをより動かせるかもしれない。デモの目的を忘れていなければね。実際上から見る大勢の人々ってキモいからね(集合体恐怖症)。

人混みの中に入らないように、人の密集しているところが見えるぐらいの位置をキープしていたのだけど、マスク着用率低すぎて友達とめっちゃ引いた。ネットでもいろいろ意見が飛び交うなか、音楽家が多い私のFBタイムラインにも、目的や意味はわかるけど、とデモの実行については反対派ばかりだった。自分たちはお客さんをいれたコンサート、つまりお仕事ができないのに、単発的にこんな人混みが街中にできるのは納得できない、と。たしかにその通りだよね。
あと面白いなぁと思ったのは、環境問題に関するデモ(Fridays For Future)の時とは参加する人々と掲げている旗やポスターの色合いが少し違ったことかな。


タイトルの話は、コロナ期間が始まってから初めて他人にダイレクトな差別を受けたやつ。

電車で乗り合わせた小学校低学年ぐらいの子供たちに微笑みかけたら「わーコロナだ!」「頭痛いよー!」「死んじゃうよー!」とマフラーで口元を隠しながらキャッキャ言われた。
犬の散歩中にすれ違った人に「これ以上近づくとなぐるぞ」ってボソボソ脅された。
道端で私がいる側に渡ってきた人が車道の真ん中で立ち止まって「なぜマスクをしていないんだ」と言ってきた。じゅうぶんな距離をとって通り過ぎるスペースがあるのに。

ふたつめとみっつめは、私がアジア人であることと関係ないかもしれないけど、私がガタイの良い白人の男性だったらきっと言われないんだろうな、と思わざるをえないよね。
地元の友達にも世界中にいる友達にも、一応こういうことがあるんだよって知ってほしいのもあって、インスタグラムのストーリーズにあげたりもした。ひとつめの話を書き込んだ時、8年間クラスメイトだった白人の女子SからDMがきた。

超意訳をすると、
「まじか、ひどいね、こんなことがあったなんてなんかごめん、あまり傷ついていないといいんだけど」
という感じ。ごめん、とした es tut mir [ur] leid は英語で言う I'm [so] sorry なので意味がたくさんあるし、どんな意図で言っていたは察することしかできないんだけどね。(こちらを参照にどうぞ https://dictionary.goo.ne.jp/word/en/sorry/ )

これに対して私は
「ありがとう、でもどちらかというと面白かったし」
と返した。
これもあまり的確ではなかったかなぁ、と今は思う。

私のその日本語とドイツ語のストーリーズ、普段の感じからするときっと50人以上がみていて、そこにリアクションしたのは彼女だけだった。でも他の49人が何も思わなかったわけではないと思う。まずそこよね。私は同情してほしいわけではなかったし、今でもそれは違うし、ただ別の白人に謝られたらそれも違うな、と自分勝手ながらに考えるきっかけになった。
上にも書いた通り、私は、こんなことがあったんだよ、と報告したかっただけだったのだ。『差別』というビッグワードに現実味を持たせたかったのだ。

そもそもそのSちゃんに関しては、なんというか、クラス内でも別グループに属していたので放課後や卒業後にわざわざ連絡をとりあったり会ったりする仲ではない。そんな人にいきなり謝られてもさぁ、という。
何様?
あなたが謝ったらあの子供たちは差別をしなくなるの?
周りの大人に偏見を植え付けられなくなるの?
帰ったらきちんと手洗いをするの?
それほど仲が良くないっていう私の先入観もあるんだろうけど、なにを持って私に謝ろうと思ったんだろうか?
もしそれが同情だったのなら、ありがたいけど要らない。
もし自分はこんなことしませんよアピールだったのなら、アピールしなきゃいけないのなんかかわいそう。
(ここから思ったことをつらつら書いていたのを読み直したらただの個人的な悪口だったので割愛。自分人間すぎて嫌だわー。)

私が傷ついたことを前提にメッセージされたのもなんだかイラッとした。これしきのことで傷つくなら海外に10年以上住んでいられない。ありがたいことに日本人は先人によって基本的なイメージが悪くないっていうのもあるかもしれない。基本的には快適に暮らしているし、渡欧してすぐよりは見られる感じもない。自分が慣れたうえにそこから圧倒的に見た目外国人な人口が増えたからかな。一人暮らししているエリアにアジアンガールズとネオンで書いてある窓がないお店(察し)があるのは本当に嫌だけど、そんな趣味(フェチ)がある人は消えないしそれに当てはまる人もいるし逆に白人に謎に憧れている人だってたくさんいるので。
(初対面の日本人に「やっぱりゆりかさんって付き合うならこっちの人がいいとかあるんですか?」ってきかれたりする。ねーよ。)

Sちゃん、ゆりかがこう言われてどう思ったかな、というところまで想像力を働かせたことまでは良いけれど、そこで傷ついただろうなつらいだろうなっていうのを決めつけられたのが一番嫌だったのかもしれない。

同じく8年間クラスメイトだったいつメン(言い方古い?笑)とのチャットグループにもストーリーズと同じことを書き込んだ時、一番初めに私が大丈夫かどうかきかれた。私の体と心の状態の確認をしてくれた、思い込みはなしで。
そして一緒に、いややばいね、その場にいたはずであろう引率の先生はその時何をしていたんだろうね、その子供たちの周りの環境は一体どういうことになっているんだろうね、そういう話を少しして、次の話題に移った。
こうして文章にしてしまうと、流しているのではないか、と勘違いされそうだけど、全然そんなことはない。だってその場で私たちにできることは限られているから。もし私が絶体絶命レベルに傷ついたとしても、チャット上で文章に残して傷をえぐることはしない人たちであることを信じている。きっと、直近で会えるように計らって一緒にいてくれる、私がそれを望むなら。お互い様だけど。

何が言いたいのかわからなくなってきた。(安定。)

差別はいじめと同じで、どんなに良心をこめていても、どんなにジョークのつもりでも、受け取める側が違和感を感じたらそれは悪。自分の言動がなぜダメなのかわからない場合はわからないなりに気をつけなければいけないし、わかっているならそれは故意的に人を傷つけているからアウトだし。
謝るのもいいけれど、そこから何を変えるのか、のほうが大事。

って自分にも言い聞かせながら生きなきゃ。
偏見は私も持っているし、自分の経験にそれを裏付けるものがあっても、それによって左右されることに対して常に気を張ることを忘れずにいよう。

読み返せば読み返すほど矛盾に満ちていそうな文章でもどかしい。











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