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「印象派、記憶への旅」

箱根にあるポーラ美術館で行われている
企画展「印象派、記憶への旅」へ行ってきた。

昨年の夏にモネ展を見に行った際に
"こんなにも光を美しく描く人がいるのか"
と強く強く感動したのがきっかけで
絵画に興味を持ち始め、
最近では印象派の展示があると聞くと
フットワーク軽く行くようにしている。

さて、今回の展示「印象派、記憶への旅」は
印象派〜新印象派〜ポスト印象派
〜キュビズムあたりが展示されていて、
その切り口が「印象派の絵画」と「記憶」の
関係性を考察するというもの。
個人的に、"記憶" は人生における
大きなキーワードなので、興味深い。

展示自体も、光を感じる素敵な絵が多く
(印象派だから当たり前か)
楽しかったのだけれど、
展示をみた後に図録の考察を読んでみたら
より一層面白い。

"印象派の絵"と"記憶"は、
画家が
①記憶と照らし合わせて目の前の対象を認識し、
②対象の前では記憶するために描き、
さらにアトリエに帰ってから、
③その対象を見た瞬間の印象を思い出しながら描く
(つまり描くことで記憶が蘇る)」
という三段階で密接に関わっているらしい。

私の日常は、
①言葉を使うことで思考や感覚に輪郭を与え、
②ことあるごとに忘れたくない気持ちを言葉にして書き残し、
③時に思い出したい気持ちをひっぱってきて、味わいなおしながらまた文章を書く。

なるほど、画家たちにとっての絵は、
私にとっての言葉と同じなのかも
しれないなぁと独りごちた。

"記憶"は、目の前の物事の認識(インプット)にも
表現(アウトプット)にも必要不可欠だから、
目の前の対象から感じた印象を
形にするうえで絶対に切り離せない、
深く本質的な関わりがあるのだな。

そして、記憶という極めて
パーソナルなものを描く(要は自己表現)
という観点から考えると、
それまで絵画といえば神話画や宗教画が
主だったところに現れた印象派は、
本当に革命的な存在だと思う。
きっと印象派が生まれたのは、
その時代の機運ありきなのだろうな。
そういう絵の背景にある歴史をもっと知りたい。

もうひとつ、
これは記憶からは離れるけれど、
「完成」のあり方について。

今回、音声ガイドと解説の文章が
かなり充実していて、
印象派〜キュビズム時代の
各画家の作品の特徴と、
そのように描いた画家の意図が
丁寧に説明されていた。

画家から画家へと
受け継がれたものがあれば、
逆に限界を迎えて
変化していったものもある。

何かを追求した結果何かを失い、
それを取り戻すために
新しい手法が生まれる。
そうやって何度も2極に振れながら
その振れ幅は徐々に小さくなり、
最終的には一点に収束する。
絵に限らず、人はいつだってこれを
繰り返してきたんだよなぁとしみじみ。

単体として完成させようとすると
結局はバランスが求められる。
一方で社会の中で生きる人間については、
単体でパーフェクトを目指さずとも
補い合えばいい場合が多いから、
必ずしもgeneralなバランスが
すべてではないとは思っている。

人生という限られた時間枠の中で、
ひとりの"perfect person"には
きっとなれないし、ならなくていい。
(大学時代、完璧でない自分に悩んでいた
時期があって、そのときにふと
「私ひとりが完璧な人間になれたからといって、
社会にとって何の価値があるんだろう。
それぞれの強みを生かして協力しあったほうが
よっぽど社会のためになるよね
……そういうことか」と悟った。
今思えば笑えるエピソード…!)

違うから面白いし、違うことに価値がある。
個人的には、
もっと個性を爆発させて生きたいよぅ(!)と
特に最近は思っているよ。

絵をみると、いろんなことを考えるなぁ。
私が印象派以降の絵に興味があるのは、
絵画そのものもいうよりも
絵画を通した自己表現に
興味があるからなのかも、とふと思う。

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