私かニワトリか

4 か月ぶりに日記を書くことにしました。余裕がなくて全然書いてなかったけど、余裕ができるのを待っていたら余裕は永遠に生まれないということになんとなく気が付いた。

4 か月前は何やってたんだっけなと思ってツイッターを見てみたら、4 か月前は車をもっていなかったんだということに気が付いた。車を買ったのはだいたい 2 か月前のことだけど、もう当たり前のように毎日乗り回していて、あれだけ乗っていた自転車にはもうほとんど乗っていない。先日、自転車に乗ろうと思っていたらダイヤル式の鍵の番号を忘れてしまっていて困った。

工藤麻紀子《私の事だけ好きだ》

9 月に工藤麻紀子さんの個展〈花が咲いて存在に気が付くみたいな〉を観てきた。タイトルが抜群に良い。神奈川県の平塚市美術館のかなり大規模な個展で、120 点以上の作品が展示されていた。

僕はもともと工藤麻紀子さんという画家を知っていたわけではなく、美術手帖(アートを扱っているポータルサイト)で個展の存在を知った。

工藤さんの絵の特徴は、一人か二人だけの人物(多くは少女)、動物、植物、水、それらの要素が融合していること。多くの場合、人物は物憂げな表情をしていることが多い。絵柄はとにかく優しくやわらかい。

上に載せた写真は《私の事だけ好きだ》という作品。つい最近まで、「”私は”私の事だけ好きだ」という少女の孤独と、その隣に寄り添う鶏を描いた作品だと思っていたけれど、英題は He Only Likes Me となっており、そうでないことが分かる。He はもちろん鶏を指していると思われる。

思えば、工藤さんの作品に人間関係が描かれているものは僕がみた限りではなかった。つまり、恋愛も友情も争いも対人的な孤独も描かれない。

また、描かれる動植物はどれも人間によって管理されているものではなさそうだ。工藤さんの絵の中では人間と動植物、自然はつねに対等である。そこに動植物や自然への愛を感じられるけれども、かといって動植物が人間に対して積極的に寄り添う表現も見られない。ありのままの自然を描いているように思われる。

そう考えて今いちど《私の事だけ好きだ》に目を向けると、少女の膝に乗っている鶏は実際に「私を好き」なわけではないのかもしれない。ただ単に、無害そうであるからと近づいて、ぴょこんと飛び乗ってみただけなのかもしれない。ともあれこの絵が意味するところは、少女がその鶏を見て(この鶏が)「私の事だけ好きだ」と思ったということ。そのように少女が鶏の気持ちを想像していること、それがとてもかわいい作品だと思った。

展示風景 (3D スキャン) はこちらから見れます(ぜひみてね)

なぜ今さら工藤麻紀子さんの話を書いたのかというと、今週の東京出張の間に、蔦屋書店(銀座)で工藤さんのミニ展示を見てきたのでした。

ミニ展示と同時に、平塚市美術館での展示品をまとめた作品集『花が咲いて存在に気が付くみたいな』が刊行され、それを読んで件の英題を知ったのでした。

せっかくなので東京出張の話も書きます。

会社の新卒二年目研修があり、三日間ほど東京に出張した。自宅から松山空港まではタクシーで移動したけれど、タクシーを降りる際にスマホを置き忘れてきたようで、気付いた時には既に空港の保安検査場を通過してしまっていた。急いでタクシー会社に連絡を入れたけれど、飛行機の出発時刻にはどうにも間に合わない様子であり、仕方なくそのまま東京に行くことになった。

飛行機のなかは異様に暇だった。インターネットもできない、音楽も聴けない、現在時刻も分からなかった。空港についてからは、路線図を見て電車を乗り継ぎ、奇跡的に名前を覚えていたホテルまで彷徨った。東京で携帯・スマホを使わずに生きている人間はきっと自分ひとりだけだろうと思った。

翌日からの研修にも何とか辿り着くことができ、意外にもそれほど支障はなかった。研修では、それなりに役に立ちそうな思考の整理術みたいなものを学べたのでためになったし、それ以上に新コロ禍で一度も会えていなかった他県配属の同期とも会うことができたのが嬉しかった。普段仕事でかかわる人たちはおじさんばかりなので、(若い人が)居るところには居るんだなぁというごく当たり前の感想を抱いた。

それと同時に、品の無い話で盛り上がったり、他人をイジって面白がる同期のノリが中学生男子のそれのように感じられ、嫌だなぁと思う瞬間もあった。僕は男性のなかでは、かなり男性という性別に(ときに嫌悪感と言ってよいほどの)苦手を感じているほうだと思うけれど、その原因はこの頃の経験に由来しているのだろうな、と客観的に分析してみたりしていた。

ねます

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