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「誰も見たことのない世界を、世の中に見せたい」 Episode1.瞑想ベンチャー「suwaru」代表取締役 石古暢良さん

 十数年前、友人を通じて知り合った彼。時折仕事の話も聞いていたものの、デジタル音痴の私には未知の世界で、「陽気でちょっと変わったARベンチャーの取締役」という漠然としたイメージでしか理解していなかった。そんな彼から「瞑想」の誘いを受けたのは2019年初夏のこと。誘いに乗って私自身も体験し、その必要性を強く感じて日常に取り入れるようになった。が、彼がなぜここにたどり着いたのかは謎だった。今回初めてその話を聞いたが、そこには長い長い、道のりがあった。


 石古さんの人生最初の岐路は、そして生涯の彼を左右したのは、彼の父がおそらく何気なく発した、このひと言だった。「お前は金儲けのために一生、人の歯見て暮らすんか? 下らん人生やな」。進学校に通っていた彼が、漠然と「歯医者が儲かりそうだから歯学部に行きたい」と父に話したときのエピソードだ。もちろん歯科医が「下らない」仕事であるわけはないが、金儲け基準で仕事を選ぶという発想のいやしさを見透かされ、日頃反発していた父の言葉が初めて響いたという。「じゃあ僕は何がしたいんだろう?と考えて浮かんだのは “まだ世の中にないもの、形になっていないものを世に送りたい”という願望だったんです」
 大学ではコンピュータやAIを学んだが、当時はバブル真っ只中。学生時代に世界35カ国を旅し、その経験もあって教授が紹介してくれたアルバイトは、西洋環境開発の仕事。地中海沿岸のリゾートを巡って写真を撮りリポートするという、バブリーな任務だった。その時お世話になった役員の人柄に魅了され、卒業後は彼に誘われるまま西洋環境開発に入社した。担当したのは、当時セゾングループの堤清二会長の肝入り事業だったタラソテラピーリゾート“タラサ志摩”。その大阪のマーケティング担当を任されたものの、新卒の若造には富裕層の囲い込みの方法などまるでわからない。「“とりあえず自分が遊びを知らないと”と、ミナミの遊び人たちと付き合い始めたんです。でも商業プロデューサーやイベントプロデューサー、DJなどの業界人らと遊んでいるうちに “俺はこんな、サラリーマンみたいな格好して環境破壊しててもしょうがないんじゃないか?”と思うようになって(笑)」。もっと血の通ったコミュニケーションに関わりたい−−会社は4年で辞め、当時尖った人が集まっていたもののちょっと危険なニオイのする心斎橋筋の「アメリカ村」エリアを、多くの若者の集まる街にしようと一念発起。商業施設のブランディングなど、都市開発プロデューサーとして活躍し、「アメリカ村副会長」として、テレビや雑誌にも引っ張りだこの有名人となった。

 15年近く、ここでアグレッシブに街を盛り上げていたものの、40歳を迎える頃転機が訪れた。「当時ビジネスで大成していた幼馴染みに、説教をされたんです。“お前の人生、それでいいのか? アメ村で土着化して仕事してないで、仕組み化して世に新しいライフスタイルのあり方を問うべきじゃないか?”と。そうだ、僕はまだ見たこともないものを世に訴えたいんだった、ということを思い起こさせたひと言でした」。
 それなら何をしよう、と迷いつつさまざまな仕事を請け負っていたある日、関西経済連合会から“ミナミを渋谷のビットバレーのようなITの集積地にしたい”と相談を受け、関西電力のバックアップの下「ミナミメディアズ」を設立、コンテンツをデジタルデータにして配信する事業に取り組んだ。とはいえ当時の通信技術ではあまりにもコストがかかりすぎ、永続化には至らなかった。ちょうどその頃、もうひとつ関わっていたのが、大阪駅の北側、梅田北ヤード(梅田グランフロント)のプランニング。ここに彼は、テクノロジーと街づくりを融合させた「フューチャーライフショールーム」というゾーンを設けた。「アメ村での街づくりを終えて、次に僕が生み出したい世界は、空間ではなく時間、“未来”だと思ったんです」。これを伝える会社としてロボットベンチャー「ジャイロウォーク」を設立。当時大阪の有名人だった石古さんは、大丸百貨店にポップアップを出したり、レトロなビルに「ロボカフェ」を作ってアーティストを次々に招くなどしてすぐに軌道に乗ったが、そんなことで満足はしなかった。こんな小さなことをしていてもしょうがない、と思っていた矢先、「名古屋の栄の三越前に、1300坪くらいの面白いことができそうな建物があるよ」と知人から紹介を受けた。そこに2007年「ロボットミュージアム」を作ったのだ。デザインはグラマラスの森田泰通氏が手掛け、多くの来場者で賑わい、TOYOTAのお膝元である名古屋の地で、産業ロボットの可能性を一般の人々に伝えるなど、ロボット文化を広めるのに貢献した。

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 順風満帆に見えた彼の「未来図」は、しかしリーマンショックとともに突然終わりを迎える。毎月2000万円ほどの支出に対して、資金繰りが完全に止まってしまった。VCに働きかけるも機能停止状態。「このままでは会社の貯金も半年で底をつく。会社を売却しようと全国の出資者のもとを100人以上回ったものの、買い手はつきませんでした」。1年で幕を閉じたミュージアムは、彼に2億円の借金を残した。「そのくらいの借金をしている人はいくらでもいる。それよりも当時僕は、ロボットビジネスに限界を感じ、夢も希望もなくしていたんです。それが辛かった」。知人の多くは彼のもとを離れていったが、残った人たちが力をくれた。「ある友人は“奥さんにお金渡されへんやろ”と数十万円握らせてくれたし、またある友人は“お前、何暗い顔しとんねん!そんなんじゃ誰も寄って来ないぞ。バーカウンターの下で手の甲にフォーク刺して覚醒さしてでもニコニコしとけ!”と励ましてくれた。別の友人は“これからお前は1年くらい下り坂を降りていくけど、断崖絶壁から滑落死しないためには優秀なシェルパを持つことや”と、優れた弁護士と税理士のサポートを受けることを指南してくれた。彼らのおかげで僕は、ノイローゼにならず、自己破産もせずに、今こうして生きているんです」

 再起への道もまた、人がもたらしてくれた。声をかけてくれたのは、全国の商業施設を手掛ける大和リースの森田俊作社長だ。「石古、ロボット持ってるんやったら、それ持って全国のモール回ったら? 集客にもなるし、子供たちの教育にもなるから」。このひと言で、大和リースのCSR事業としてロボットを使ったイベントがスタート。あちこちの友人に預けていたロボットをかき集め、10トントラックで全国を回りながら、リスタートを遂げた。そこで知り合った岩井陽介氏とARの事業を一緒に始めようと意気投合、「アララ」を創業したのだ。「形のあるロボットはお金がかかるけれど、ARは形のないロボット。デバイスを使ってライフスタイル型にデザインすれば面白いことになる、というイメージができていたんです」。iPhoneを使い、学研の30冊の百科事典をAR化するなど、「誰にでも手に取れる未来」を実現したりもした。

 ようやく新しい道を歩き出した石古さんに、また試練は訪れた。創業5年目の2017年、脳梗塞に。「これからアララの技術を使ってもっといろんなことを手掛けたいという矢先でした。1度目はセンサーをつけて生活していましたが、翌年2度目の脳梗塞になった時には脳幹で、寝たきり寸前だったんです」。志半ばのままアララを離れ、世界を旅する時間を持った。「旅をしながら、ここまで来られたのは周りの人のおかげだとしみじみ感じて、これからは人の力になろうという思いが湧いたんです」。資金調達しながらビジネスを回すようなハードな日々は無理でも、ビジネスのフレームワークを作ったり、人と人を繋いだりすることはできる。帰国後はそんな思いから、浅草に日本文化の真髄を表現したミニマルな宿「茶室Ryokan」をプロデュースするなど、新しい試みに取り組み始めた。

 とはいえ、身体の不安は残ったまま。中国鍼の名医にかかりながら、かつて紹介を受けていたネパール人のニーマル・ラージ・ギャワリさんに助けを求めた。「彼はハタヨガの継承者で、15歳から王族にも指導をしてきた人。日本では白金台でヨガや瞑想、アーユルヴェーダを教えていました。彼のアドバイスに従って食事やライフスタイルを変えて1年半後にMRIを受けたら、脳梗塞が完全に消えていたんです。5000年前の叡智が、現代医療の先を見せてくれると感じました」。この先日本で何をすべきか悩んでいたニーマルさんに、「メディテーションを軸にして新しい形で伝えて行こう」と持ちかけ、2019年瞑想ベンチャー「suwaru」が誕生した。

 創業して1年、すでに多くの門下生を育て、広尾の「EAT PLAY WORKS」に構えたサロンでは、毎日のようにセッションを開催。オンラインレッスンで世界中からアクセスできるようになり、着実にその輪が広がっている。ゆくゆくはここで得た収益をネパールの小学校建築に還元したいという思いもある。
「まだまだ、これから。やりたいことがいっぱいあるんです。ニーマルの頭の中にはヴェーダ哲学に基づいた理論と実践が詰まっていて、それはまるでドラえもんのポケットみたいに、宇宙と交信するパスのような存在。自然っていうのはものすごく原始的なものでありながら、実は宇宙なんですよね。彼ととともに僕は、科学も超えて、時間も空間も超えた“誰も見たことのない世界”を広めたいんです。例えば、そこに行って本を読んでいるだけで体調が改善するリゾートを作ることもできる。風や木、音など、自然のものだけでそれが作れるんです。僕はこれまで、デザインを通して新しい世界をみんなが見える形に変える、という仕事をしてきた。都市開発、ロボット、瞑想。全然違うことをしているように見えても、結局僕が追いかけてきたのはずっとそこにあったんです。そして今、“まだ見ぬ世界”がここにある。むちゃくちゃワクワクしています」


PROFILE
Masayoshi Ishiko●1964年兵庫県生まれ。筑波大学在学中にニューヨーク州立大学に留学。卒業後、セゾングループ西洋環境開発を経て大阪のアメリカ村の開発に乗り出し、アメリカ村副会長を努めるとともに、ファッションプランナーなどを務める。2003年「ミナミメディアズ」設立、2005年ロボット会社「ジャイロウォーク」を設立し、ロボットカフェ、ロボットミュージアムなどをオープン。2007年撤退し、2011年ITベンチャー企業「アララ」創業。その後2度の脳梗塞を経験し、事業から手を引く。「茶室Ryokan」の立ち上げ、画像AI会社の顧問などを経て、2019年瞑想ベンチャー「suwaru」を創業、現在にる。https://www.suwaru.co.jp

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