ガキの頃野球番組でキレていた祖父が嫌いだった

 画面の向こう側の人間に怒っているという自覚はあるのだろうか。

初めまして。
仕事で人を教育する立場にいる自分が少し昔のことを思い出したので文字にまとめます。
周りの人と何気なく接した後に少しだけ思い出して貰えるとこのnoteに意味が生まれます。

対大人の読み聞かせとして皆さんの時間を少しいただきたいです。最後まで少々お付き合い下さい。


〜ガキの頃を思い出した会社のMTGで〜

自分の会社は規模も小さく所謂スタートアップ企業と言われる会社だ。

話の発端は自分が「よく遅刻をするojt(以後A君)」の1人の指導進捗報告を行っている時。
遅刻をしてしまう背景も含めた指導進捗を聞いていた1人の上司が
「A君は遅刻が多くあまり新しい仕事を任せられないね」と一言。

実際A君は遅刻が2週間に1度ほどあり、遅刻に関して本人も悩んでいるため自分が相談に乗っていた。

A君が遅刻に関しての正しい努力が足りないのは別の話として。
今回は上司の発言にスポットを当てる。


〜人間の悩みやミスには必ず背景がある〜

「A君は遅刻が多くあまり新しい仕事を任せられないね」という言葉に2つ引っかかる点がある。

#1.遅刻の原因を全く考慮していない発言であること
#2.会社から見れば全くの正論であること

#1.については言うまでもないだろう。
そもそもこの上司の発言には責任がない。
指導を担当しているのは自分で、上司は意見を述べただけだから。
そもそも原因が見えずとも「何か原因があるのだろうな」と考える事が普通だと思っていた自分にとっては上司の発言は理解し難い。

#2.について。
会社側からの正論を浴びせる事がその人の成長につながるのだろうか?と疑問に思う。
そもそも指導とは「面と向かって教える」ではなく
「一緒に伴走するもの」だと考えている。

#1.と#2.を祖父の例に言い換えてみる。
#1.何か原因があって悪いプレーをしてしまった野球チームを頭ごなしに批判している。

#2.そもそも悪いプレーに対しての批判はもっともな正論であるから。


〜終わりに〜


ここで自分の考えを言語化することで
「嫌い」と思うばかりで言語化出来ずモヤモヤしていたあの頃の気持ちにケリを付けることが出来た。

人に正論をぶつけるのは快感であり、その時は自分自身の事が見えておらず、他人が全て自分の下にいるような全能感に包まれている。
が、そんな状態を周りの人は常に見ている。


これを最後まで見てくれた方には、
目先の快楽に惑わされずに1つ1つの言葉を大事に発言してほしいです。


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