週報にある、「新しい人へおもてなしをしましょう」的な文言についての考察

先日、ブラックな企業とブラックな教会を見分ける方法が似ているという論を展開したが、

今回も似ている。


久しぶりに、
パニック発作が出そうになりつつ、他教派の教会へ行ってみた。

結果、
正直、あまり歓迎されなかった(笑)

教会員向けアナウンスが長くて終わる見通しがたたなかったので途中退出した。
深入りしなくて感謝であった。

週報に、
「新しい人が来たらあたたかく迎えましょう」的なことが書いてあった。

そのほかに、
「礼拝開始前に着席し、心を整えましょう」的なこと
も書いてあった。

何かちがうと私は思った。

そんなこと書く必要ないではないか。

そこに書いてあるということは
私たちはそれが出来ていません、
という自分たちの自己紹介(アピール)であると感じた。(もっとも、そんなこと出来なくていいのだ。と私は思うし、週報に書く必要がそもそもないことだと思う)

牧会者やリーダーが、現在来ている信徒に対して願っている(困っている)ことをここで、書いているんだな、と感じた。

これは前のハラスメント教会でも同じだった。

そういうのって、イエス様と出会っていくことの本質じゃないよな、
と思った。

ここは幼稚園なのか。(ああしなさい、こうしなさいという細かい指示)

この世界で生きていく時、日本の社会の一部である教会が、日本文化の秩序に従い、ある意味日本文化に侵食されるのは分かるのだが、

御国文化はそれらを越えていくものである。

あまりこういう話をすると机上の空論とか、教会批判かと言われそうだが、

そう言われても仕方ない。

私は、教会ごっこを求めていない。
真の神に出会うという出来事が教会で起きなければ、
またその神を中心とした交わりがないのなら、
教会に行く意味を私は見出すことができないでいる。

そういった教会は日本に、10本の指にも入る数も残っていないのではないかと思う。

冗談で言っているのではない。

どの口が言うてんねんと
言われるかも知れない。

でも本当にそうだから、
むずかしいし、
悲しいし、
辛い。
そして私はとても傷ついているし、
それで良しとしている教会に対して
心を痛めている。
そして自分自身が公同の教会の一部であるから、自分自身にも言えることなのだ。

しかし、
私は今まで、教会の誰かに依存してきたのだ。
今は、一対一で神様と関わることしか方法が無くなったから
それはそれで必要だったんだと思う。

とりま、
今は、無理しないということだ。

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