みんなの思う幻想のイエスに固執していたと思う

•御言葉の間違った読み替えや適用の例に、
「自分のいのちを捨て」→教会のために働け。があると思う。

自分の人生は自分で責任を取って切り開くことが大いに必要だが、
こういう風に言われると、依存させそこから動けなくなると思う。


結局、「組織化されてしまった『キリスト教』」は、私を真の意味で自由にしなかった。
キリスト教の組織が嫌いだ。

初めの結果よりも悪くなったのである。

そして、見ていて、ああ、この人は本当にイエスと関係があるなって思う人がいる。ごく稀だ。
それはすごいことだ。本当に数人。

有名な人でも、とんでもないこと言っていることがある。しかしほかのキリスト者はそのおかしさに気づかない。ビッグネームだから、あの先生の言うことだからすごいに違いない、みたいになる。自分で見極めねばならない。

しかし聖書にない謎な教会教や教会ルールが多い。

今気づいて良かったと思う。

私は何かあった時教会は助けてくれるのだと思っていた。そうではなかった。しかしある意味私も教会を利用していた。たとえば友人づくりの場や、自分の惨めな人生に向き合わなくていいように一生懸命無償で奉仕をしたり。
あと、金銭的に大変になったりしても助けてくれると思ってた。
普段献金してたし。
でも本当に助けが必要だった時、教会としては一円も出さなかった。え?てなったな。

今これ読んでたら、ぶっちゃけ、めっちゃ見返り求めてるし、下心バレバレ。

そして教会員のほとんどが上辺だけの関係だった。
私が教会の中で悪者扱いされて、精神的に追い詰められていた時、守ってくれた友人はそれでも数名いた。
一人は、具体的に行動までしてくれた。これらの友人は本当の友人だったと思う。

しかし、他の人は、私を無視した。いじめられている子を見て、みないふりして放っておくのと一緒だ。


私が信じようとしていたものは「世間一般のクリスチャンが考える幻想のイエス」
だったと思う。

教会はとても楽しかった。そして私の人生のある部分を助けてくれた。それは感謝している。

結局自分には、信仰はなかったのではないか。もしかしたら、最初から間違ったものを信じていたのだろうか。

大きなハラスメントに遭ったことで、
ある意味、教会から出ることができたのは
長い目で見れば良かったのかもしれない
と、やっと思えるようになってきた気がする。

そして、どっぷり浸かっていた「教会教」が自分の中からなくなった今、
これからどうしていいかわからない自分に、直面している。

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