さくらまりか、深夜の電車でナンパされる

「どこまで行くんですか」


やわらかな心地よい声を聞いたのは、ひめちゃんセッティングの合コンの帰り道だった。
お目にかかったワイン好きなヤマモトさん、いい人だけど、少し物足りないかな。
ワイン4杯でふわふわした頭で考えながら、シイナにLINEの返信を書いているところだった。

驚いて顔を上げ、声の主をまじまじと見た。
口髭が似合う、がっちり筋肉質な、とっぽい男性だった。
30代なかばくらいだろうか。
やんちゃなくせに、目の奥にやさしさとさみしさをたたえたその瞳は、少し緊張しているようにも見えた。
照れるようにまりかの顔をのぞきこむ横顔は、相手の気持ちをおもんぱかってばかりで、モテるのにフラれてばかりな人の表情だった。
この瞳、知っている、と、まりかは思った。
会わずして、まりかを振った歳下くんだ。
奇しくも昼間、彼から余命3か月の宣告を受けた、と、LINEをもらったところだった。

悪い人ではないな、と、直感的に思った。
少なくとも、酔っ払ったオバさんの目を盗んでカネをすろうという類の輩ではない。

でも、終電近い電車で、オバさんに何の用? と、訝しく思ったが、ふたり掛けの席で話しかけられたら、答えるほかない。
まりかは、彼のやさしくてさみしげな瞳を信じることにした。

「Y駅までです。どちらですか?」
「N駅です」


N駅は隣の市、まりかよりひとつ先の駅までゆくということだ。
膝に乗せたiPhoneには、彼とうりふたつの赤ちゃんの写真があった。
ぽちゃぽちゃほっぺがかわいくて、つい声が出た。

「わーかわいい。お子さんですか」
「そうです。まだ小さいころ」
「いまはおいくつなんですか」
「3歳と5歳になりました」

意外だった。
そんな小さな子がいるとは、
もっと大きな、中学生くらいの子がいても不思議ではない落ち着きぶりだ。

「3歳と5歳!
歩き回るし、おしゃべりするし、大変だけどかわいい年ごろですね」
「毎日、大変です」
「子ども、あっという間に大きくなっちゃいますよね」
「お子さん、おいくつなんですか」
「いつの間にか、23歳になっちゃった」

少しの沈黙が電車が走る音をかき消しながら、彼はことばを続けた。

「自分、いま29なんですけど、歳より上に見られることが多いです」

まりかは、ふたたび驚いた。
ウチのチヒロといくつも違わないではないか。
大きな腹を抱えた妊婦になり、母となるわが娘の姿を想像することができず、まりかは戸惑っていた。
でも、わが身を振り返れば、チヒロの命をこの世に送り出したのは、28のときだ。
この彼の歳には、離婚をして、シングルマザーとして福祉という道の仕事に飛び込んでいたではないか。
まりかよ、自分が歳を取ったことを認めたまえ。
チヒロはもう、庇護の対象ではなく、みずから人生を歩むことができる大人だということを、受け入れたまえ。


「自分、これからN駅で友だちが待っていて、飲みに行くんですよ。
たまにはゆっくり飲みたいと、嫁さんの実家に子どもたちをお願いして」
「わー、これから家飲みなんですね。
子育て、たまにはお休みして、楽しんでくださいね」


29歳、まだまだ遊びたい年ごろだ。
パパなのに子育てをがんばっている、というと語弊があるかもしれないが、子育てを妻任せにしないいまどきの若者は頼もしかった。
と、思いながら、まりかは歳を取ったものだと改めてあきらめに近い感情を抱いた。


「子育て、がんばっているんだね。
奥さんまかせにしないで」
「妻というか、籍は抜いているんですけどね」
「そうなんだ」
「まあ、いろいろあったから」

と言いながら、彼はジーンズのベルト通しからキーチェーンを外し、無邪気に笑う坊やふたりが写ったキーホルダーを差し出した。


「5歳3歳だから、七五三だったのね。
かわいいなあ」
「はい」


彼は照れた表情を必死に隠しながら、うれしそうに笑った。
白いフリースのジャケットに、ダメージジーンズ姿からは、男っぽさが匂い立っていた。


「これから飲みに行きませんか」
「えっ」


どうもまりかは、ナンパされているらしい、と気づくのに、分単位で時間がかかった。
娘と6つしか違わない若者に、日付けが変わる直前の師走の電車の中で。


「自分、父親がいなくて、母親もあまり会っていなくて。
女の人の歳とかよくわからないんですけど。
素敵な奥さんだな、と思って」
「ありがとうございます」


どうもまりかは口説かれているらしい。
でもあと20分で日付が変わる時間、明日は絶対に休めない仕事だ。

「自分、電車にほとんど乗らなくて、1年に一度くらいしか乗らなくて、スマホもキライだから、電車の中で何したらいいかわからなくて。
素敵な人だったから、話しかけちゃいました」
「ありがとうございます」


若き見知らぬ殿方から突然の受けて、何を話してよいものか、まりかは思案した。


「私ね、いい歳して今日も合コンだったんです。
マッチングアプリもしていて、さっき、少し前に知り合った人から余命宣告を受けちゃった、って連絡があったの」


彼はさみしげな瞳を大きく見開いた。
細い目元は、どこかブラット・ピットに似た色気をたたえていた。


「それは、重いですね」
「なぜ彼がいま私を思い出してくれたのかわからないけど」


彼も返答に困ったのだろう。
まりかもなぜ、見知らぬ殿方に話をしているのか、わからなかった。
たぶん、グラス4杯のワインのせいだろう。


車内アナウンスが、まりかの最寄駅を伝えた。


「次ですね。
自分、思い切って話しかけてよかったです。いい人で。
ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。
家飲み、楽しんでね。
奥さんとお子さんたち大切にして、仕事がんばってくださいね」


12月最初の土曜の夜、真夜中のプラットホームをしばらく忘れていた冷たい空気が包み込んでいた。
口髭がとびきり似合う、ちょっとセクシーな若い殿方にナンパされて、人生悪くないわね、と、独りごちた。
命の期限を告げられた歳下くんにも、徹底的に寄り添おうと決めた。
家まで20分、タクシーは拾わずに、ゆっくりと歩いて帰ろう。
忘れかけていた冬の空気を、思い出しながら。

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