八方塞がり

「何かが起こってはいると思うんですよね。
見えるところだと、この肘の下あたりにも大きくむくみが出ているの、わかりますか。
水分を吸収できなくなってしまっているんです」
「なるほど。よくない状況なんですね。
いろいろ覚悟しておいた方がよいのでしょうか」
「何とも言えません。
月曜に主治医が出勤したら、おそらく脳の写真を撮るなどの検査をすることになると思います」

三連休真ん中の土曜日、久しぶりに日中、予定がなかったので、まりかは行きつけのスターバックスで締切を来週に控えた原稿を書いたあと、隣にあるスーパーにいた。
のんびり買い物をしていたのに、父からの着信音が鳴る。
時計を見ると、12時2分である。
お昼の催促だろうと渋々電話に出ると、果たしてそうであった。

「おい、昼飯はどうするんだ」

「いま買い物しているけど、急ぐんだったら冷凍のお弁当食べてよ!
いちいち電話してこないでよね」

休日のお昼どき、多くの人が視線を注ぐのも気にせず、まりかは叫ぶように吐き捨てた。
母が倒れてまる4年、父の3食に追いかけられる生活も、もう限界だ。

「オレの飯を用意するくらいで、どうしてそんなに疲れるんだ?」

先月、訪問したケアマネジャーに、父はそう言い放ったそうである。
その無配慮ぶりに、年寄りの扱いに慣れている彼も、危うくキレそうになりましたと、同調してくれた。
実は昨日の夕方、まりかは「早く死んでほしいと思っている」と、父に言い渡していた。
高齢者虐待である。
そしてまりかは、その高齢者虐待に対応する機関の、対応する職種でもある。

万事休す。
できるだけ父と距離を置いて、危害を加えないようにして、週明け、速攻でケアマネジャーに電話だな。
休み中に申し訳ないけれども、予告のメールだけは入れておこう。
何か起こっても、決してケアマネの不手際ではないとわかるように。

父からの着信時に、少し前に別の着信もあったことに気がついた。
トオル伯父の入院する病院からだ。
すぐに折り返すと、かけてくれた当直医師が不在とのことで、病棟のナースが出てくれた。

トオル伯父は、言ってしまえばお迎えを待つために、静かに時間をすごす病棟に入っている。
10月半ばに転院させたときは、まりかをアケミ伯母の名前で呼ぶなど話もできていたが、昨日あたりから会話もままならず、意識レベルも徐々に下がっているという。
血圧や脈拍などのバイタルはやや下がってきているにとどまっているとはいえ、顔を見ておいた方がいいだろう。
ナースにこれから会いにゆけるかとたずね、了解を得られたので、自宅に戻って冷凍冷蔵品をしまうとすぐ、K市へと向かった。

ほんの10日前、同じ国道を、まりかはときめきを隠さずにハンドルを握っていた。
午前中の短歌の会に続いて、14時にK市のショッピングセンターでコウイチと待ち合わせをしていたのだった。

父には精神的虐待をし、帰宅願望を訴える母を完全無視し、伯父の命は風前の灯、コウイチは音信不通。

10日で、なんという変貌ぶりだろう。
人生はかくも残酷である。

不思議なことに、ナビを伯父の病院に設定して車を滑らせると、まりかは大きな声でコウイチに向かって話しかけはじめた。
話しかけずにはいられなかった。

「コウイチ、ちゃんと戻ってきてね。
一緒に泥のようなふたりになろうと、約束したでしょ。
まりかといれば、絶対に幸せになれるの。
お願い、まだ川は渡らないで。帰ってきて」

まるで、ゼンマイじかけの人形のようであった。
あとからあとから、コウイチへのことばが出てくる。
何かがコウイチの身に起きているのだろうか。
わけがわからないまま、まりかはコウイチへの想いをことのはに乗せ続けた。

職務質問されたら、捕まりそうなレベルである。
ラジオの声がかき消されるほどはっきりした声で、まりかは病院までのほぼ2時間、コウイチに語りかけ続けた。

「トオル伯父ちゃん、コウイチが近くにいるんじゃない?
いたら、まりかのところに帰るように言ってね。
伯父ちゃんには悪いけど、コウイチはこちらに返してね。
まりかと幸せになるんだから」

なぜかはわからないけれども、コウイチに語りかけ続けなくてはならないように感じた。
伯父とコウイチが話をしているように感じた。
理屈ではなくて感覚、コウイチがいうところの何となく、である。

「コウイチ、愛してる。
絶対に会えるからね。
手の届くところにいよう。
一緒に暮らそう。結婚しよう。
おたがいの命に責任を持てる存在でいよう」

まりかの独白は止まらない。あふれる涙で、前が見えなくなりそうになる。
気が触れたと言いたければ言えばいい。
まりか自身、何が起こっているかわからなかったのだから。

すべてを吐き出し尽くすと、伯父の病院の看板が見えてきた。


伯父の容態はよろしくないけれども、今日のところはすぐにどうこうというわけではない、とのナースの説明を受けて、病院で定められた面会時間の10分をベッドサイドですごした。
伯父は、むくみでほとんど開かない右のまぶたををわずかに動かし、うつろな目玉を見せた。
大きく息をする音だけが、大部屋のカーテンの中に響いていた。

「伯父ちゃん、またくるね」

まりかはそう言って、トオル伯父の額に手を置いた。
ふたたび、わずかに右のまぶたが動き、小さな涙の粒が浮かんだように思った。
とてもしんどいけれども、こうして関わらせてくれて、ありがとう、という気持ちが込み上げた。
次は、月曜の午後、検査結果を聞きにくることになった。
ずっしりとした荷物を両の肩に背負ったようだ。
まりかは、エンジンをかけ、ナビを自宅に設定した。


気がつくと、まりかは吸い寄せられるように、先週、コウイチと会ったショッピングセンターに向かっていた。
奇跡的に、駐車場はあの日と同じ場所が空いていた。
待ち合わせの前にはやる心で車を停め、逢瀬のあとに感謝とさみしさでいっぱいになりながら別れのハグをした場所だ。

でも、まりかを抱き止めてくれるたくましい腕と広い胸は、今日ははない。
彼と会えた1階フロアに行ったけれども、紺色のTシャツを着た背の高い姿は、今日は見当たらない。
彼が買ったのと同じハンドクリームを買ってみたけれども、どこにもいない。
並んでパスタを食べた同じ席で、同じパスタを注文したけれども、隣に彼はいない。
念のため、閉店ギリギリまで並んですごしたカフェにも彼がいないことを確認して、あんこのたい焼きをひとつ買って、家に帰ろう。
本当は抱擁を交わした伯父のマンションにも寄りたかったけれども、鍵を持ってきていなかった。
よかったのだと思った。
彼が今日いたかもしれない、可能性をひとつでもとっておきたかったから。


俗に、天は、乗り越えられない試練を与えない、という。
終わらない夜はない、という。
抜けないトンネルはない、ともいう。
でも、こんな袋小路で八方塞がりな中、天はまりかに何を与えようというのだろう。
まりかはいったい、どこに導かれているのだろう。


コウイチはきっとそこにいる。
だって、まりかと約束したのだから。


さくらまりか51歳、生きることに必死である。

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さくらまりか  
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