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肌と素肌の間には

「服」ってなんだろうなと最近よく考える。
(なんだいきなり突拍子もなく。)

コロナになって、外に出歩かなくなると
外に出ることが特別になった。
それに伴って「服」をよく吟味するようになった。

巷では、オンラインの会議や授業が増えたことで
スカーフや襟がかわいい服がよく売れるようになったと聞く。
社会の変化に服装は敏感に反応しているんだなとしみじみ思う。

だけどこの現象に私はちょっと違和感を覚える。
服って自分起点で起こしている行動なのに、
これじゃ誰かに選ばされているような感覚になる。
服を着るって自分が考えて行っているはずなのに。

服について考える。
すると、「肌」と「素肌」の違いに行きつく。

「肌」と「素肌」の違いってなんだろう。
というか、なんでわざわざ「肌」と「素肌」が分かれているのかな。
私は素肌は各々が持つ身体的な唯一無二の「肌」で
「肌」は結局自分を守るものという意味だと思っている。

そうすると、服も「肌」になる。

服はもともと自分の体を健康に保つために作られた概念だ。
ある時は人をケガから守り、
ある時は風邪をひかないように体をあっためる。
これは自分のためのモノ。

だけどある時から、
人は服を「相手の視線から自分を守るため」に使うようになった。
ある時は「制服」という形で周りの中に自分を埋没させる。
ある時は奇抜な服装をすることで自分が存在することを証明する。
こうして相手のなかに自分を入れ込むことを「服」を通して行ってきた。

だから、相手の視線がいかない部分には「肌」と作る必要がない。
それがさっきのスカーフや襟につながってくる。

私たちは服を通して、
身体的にも、精神的にも、自分を保ってきた。
そんな大事なツールだったんだと思う。


最近ではSNSも自分の「肌」になりつつあると思う。
自分の考えていること、感じていることを
無条件に不特定多数の誰かにさらす。
自分の内側部分を少しづつ見せる。そしてきれいに見せたくなる。

若い人たちは常にだれかに自分の肌を見せている状態になっている。
だから、わざわざ自分の身体を矯正する必要がなくなり、
人々はゆったりしたラインの服をきるようになったのかもしれない。

「インスタ映え」と「おしゃれな服を着る」というものは
根本的には自分の肌をつくるという意味では同じことなのかもしれない。


肌と素肌の間には
自分の想いと相手の視線が交錯する交差点のようなものがあると
勝手に考えている。

自分のなりたい姿、自分の守りたい部分。
相手の印象、相手が見えている自分の外見。
そのいろんな線が肌と素肌の間には無数に通っている。

だから、私たちは服を手放せない。






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