多様性の根っこ
多様性って大きな木のようだなと思うときがある。
多くの人が言う多様性は人種、肌の色とかといった目に見える多様性で
私的にはそれが木の葉であり、幹にあたる。
もう一つは宗教や価値観などの見えない多様性。
それは大きな木の根っこのように張り巡らされて、カオスなもの。
それが本来の多様性なんだと思う。
東北に来てから、この「根っこ」に直面することが多い。
地元の人の話を聞く機会があるのだが、
誰一人として同じ話し方の人がいない。
そして半分以上が聞き取れない(笑)。
なんか一般的には地域には方言があって、
同じパターンであるはずなんだけど。
個々の人たちはそれぞれ話し方がまるで違う。
毎回聞き取るのに精いっぱい。
話の内容も本当に様々で。
地域という大きなくくりでみたら、みんな同じように見えるはずなのに、
一人一人に向き合ってみると、誰一人として同じことを話す人がいない。
自分にしか持っていない物語を持っている人ばかりだ。
日本ってこんなにいろんな物語で溢れているんだと、
衝撃でしかなかった。
「日本人は単一民族だ。」「日本には多様性がない。」
なんていう人がよくいるが、絶対そんなことないと思う。
私たちの方言も立派な「多様性」だし、
一人一人の人生のプロセスも誰一人として同じ人はいない。
みんな自分の物語という名の「型」を持っているはず。
それが同じように見えるのは、
自分の型を相手に合わせたり、
知らぬ間に自分を変形させているのかもしれない。
私は個人的に
多様性は素晴らしいなんて言うけど、
そんな簡単なことじゃない。
多様性って本当に面倒だと思っている。笑
これはネガティブな意味での面倒ではなくて。
お互いを違うと認識することは本当に面倒な作業で、苦しさが伴うんだっていう心づもりがとても必要だってこと。
だから多様性がないほうが大きなくくりの中だと、とても楽なんだと思う。
だけど、楽なことと居心地がいいということは別なわけで。
みんな楽になっても居心地がよくならなかったから、一人一人の
多様性を尊重しようという面倒なことになったんだとおもう。
多様性を受け入れられるのかは
「違い」を前提としてみるのか、
「同じ」を前提としてみるのかの違いであって。
その捉え方の眼鏡を持っていないと受け入れられないどころか
捉えもできない。
それくらい多様性ってすごく奥深いもの。
多様性って木の根っこのようにカオスで。
だけど私たち人間の本質って
そのカオスの中に本質があるのかもしれない。
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