『絞殺魔』~画面と人格の分裂~
『絞殺魔』1968年
監督:リチャード・フライシャー
脚本:エドワード・アンハルト
出演:トニー・カーティス
ヘンリー・フォンダ
ジョージ・ケネディ
※以下の文章は映画の結末に触れています。
スプリット・スクリーン
この映画はテレビ画面のアップから始まる。ある部屋のテレビの画面にはマーキュリー計画から帰還したアラン・シェパードをたたえるパレードが映し出されている。現在は1961年であるようだ。カメラが引いてゆくと、何者かが部屋を物色しているのが映る。黒い手袋をした男がタンスやベッドを探っており、明らかにこの部屋の主ではない。するとそれを映す画面がワイプのように小さくなり、真っ黒の余白に白い文字でタイトルバックが浮かび上がる。分離された画面の中で物語とスタッフクレジットが同時進行するのである。タイトルバックの傍で、床を物色する誰かの手元を映すカメラがゆっくりパンすると、そこには部屋の持ち主らしい老婆の死体が横たわっている。
このように画面の中で複数の映像を並行して映し出すという映像手法はスプリット・スクリーンというもので、この映画では頻繁に使われている。この後に続く警察による捜査の場面や、相次いで行われる殺人の場面でこのスプリット・スクリーンを用いており、この映画の大きな特徴の一つと言えよう。しかし、フライシャーがこの手法を採用した意図は何であろうか。以下、『絞殺魔』の様々な視覚的な演出について考察してみたい。
『サイコ』との類似点
フライシャーがこの映画を撮る際に下敷きにしたのは、おそらくヒッチコックの『サイコ』(1960)だろう。類似する点は大きく三つある。一つは実在の事件をもとに製作された映画である点。二つ目は多重人格の殺人鬼というモチーフ。三つ目は映画全体を支配する「切断」や「分裂」のイメージである。北村匡平は、近著『24フレームの映画学』の中で『サイコ』についての映像分析を行っており、この映画の視覚的な特徴を「切断と分裂」だと言う。ソール・バスがデザインした、監督や出演者の名前が切り刻まれるタイトルバック。映画の前半と後半で物語の主人公が変わるという、映画全体を真っ二つに切断するような構成。鏡による身体の分裂。画面を横切るナイフ。殺人鬼の分裂した人格……。北村曰く、「このように「切断=分裂」のモチーフがサブリミナル効果として、スクリーンに重層的に浮かび上がる(注1)」ということが『サイコ』の妙味なのである。『絞殺魔』にもまた、「切断と分裂」のイメージがそこかしこ挿入されている。スプリット・スクリーンによっていくつにも分裂する画面。物語が中盤で切断されるという構成。鏡や引き裂かれた衣服。『サイコ』と同様、その主題でだけでなく画面の端々に「切断」や「分裂」といったイメージが浮かび上がってくる。こういったイメージが特に印象的に使われている後半のシーンを具体的に見てみよう。
「切断」と「分裂」
上述した冒頭の後、正体不明の殺人鬼による犯行と警察の捜査がサスペンスフルに描かれることになるが、映画が一時間を過ぎたあたりで、殺人鬼であるアルバート視点の物語に切り替わる。『サイコ』よろしく映画は中盤で切断され、前半部を通して描かれた犯人捜しのサスペンスはここで放棄されてしまう。後半部の始まりはテレビ画面である(前半部冒頭のテレビ画面がここで反復される)。J.F. ケネディの国葬がテレビ中継されており、このことからその日が事件発生から3年がたった1964年であることがわかる。国葬の中継をソファに座って見つめる一人の男。何やら神妙な面持ちをしているが、テレビの内容に集中しているようには見えない。娘が寄ってきても心ここにあらずといった様子でどうにも落ち着かず、彼は徐にボイラー点検の仕事に出かける。
通りを走る車から、店のショウウィンドウに下着姿の女性のマネキンが置かれているのを見る。その直後、スプリット・スクリーンが始まりアルバートの犯行の場面に突入する。マネキンを見たときにアルバートのなかで”何か”が発動し、同時に画面の分裂が始まるという演出は注目すべきだろう。この場面では、スプリット・スクリーンという映像手法とアルバートの心理の動きが直結している。
この後のアルバートの二つの犯行場面も非常に興味深い。前半と同様分裂した画面の中で凶行が行われるが、ボイラー点検を口実に女性に部屋に侵入すると画面は一つに統合される。洗面台の管を点検するふりをして隙をつき、女性を背後から捕まえる。胸元から服を引き裂いたところでカット・アウト。次のショットには翌日の新聞がアップになり、「11人目の被害者」という見出し。そしてこの日もアルバートは犯行に及ぶ。前日と同様、ボイラー点検を偽って女性の部屋へ侵入する。もちろんここも複数の画面による。しかしここでは部屋に入ってから女性を拘束するまでが省略され、アルバート服を引き裂く動作でカット・インする。画面は単一に戻り、アルバートは引き裂いた服で女性をベッドに縛りつけている。
この二つのシークエンスで重要なのは、服を「引き裂く」という動作である。それぞれの場面でカット・アウト、カット・インのきっかけとして配置されることで、この「引き裂く」という動作が鮮烈に印象づけられる。アルバートが逮捕され取り調べを受ける場面で、彼の脳裏に最初にフラッシュバックするのも服を引き裂いたときの記憶である。
まとめ
ことほど左様に『絞殺魔』には「切断」や「分裂」の視覚的なイメージに満ちている。スプリット・スクリーンによって分割された画面。中盤で切断される物語。衣服を引き裂くという身振り。鏡もまた象徴的な小道具として登場する。アルバートが女性を拷問しようとするとき、ふと鏡の中の自分を見て動揺してしまうという場面があるし、彼が尋問を受ける取調室は何もない真っ白な空間で一方の壁が鏡になっている。『サイコ』と同様、それらは画面のそこかしこでサブリミナルのように浮かび上がり、分裂した人格の持ち主による殺人事件という映画の主題とも合致しているのである。
注1(24フレームの映画学、p152)
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