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両丹日日新聞連載7(2022年5月)
農をあきらめない!つながる命へ、ここ花倉から
KOKO花倉 和久 豊子 (福知山市)
みなさん、こんにちは。福知山市の和久豊子です。
旧天津学区の一尾(いちお)という村で勤めの傍ら家庭菜園をしています。村のことと思い出話を少し。
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村の場所を説明しても通り過ぎてしまわれるような小さな村ですが、別名「花倉」(はなくら)という美しい名前をもち、現在は20人あまりの住人が力を合わせて生活しています。今では人口も減り、小中学生幼児はなく平均年齢は年々上るのみですが、かつては村全体でお茶の栽培に取り組み、製茶工場を稼働させたり、どこの家でも黒牛が飼われたり、田畑では当たり前のようにお米や野菜が作られ、私は専業農家(酪農、お茶、野菜)の子どもとしてここで生まれ育ちました。子どもの遊びも退屈はしませんでした。峠を越えて隣村の瘤木(こぶのき)へ遊びに行ったり、山の中で基地を作ったりは当たり前。熊や鹿など聞いたこともなく、とがめられもせず夏は川に入りびたり。魚やズガニを獲ったり、「おおいわ」から飛び込んで泳いだり…。
そんなのどかで安全だった里も近年50年の間に、熊や猪、鹿が村中を闊歩し、水路は荒らされ田畑も作りにくくなりました。私も農地耕作を継ぐこともできず、美しい畝が広がるお茶畑や、狭いながらも秋には黄金に染まる田んぼの、自慢の風景は時の流れとともに姿を変えていきました。茶畑も今はなく、近所でも耕作されない田畑が増えました。
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父が亡くなってからは作れない農地は近所の方に作っていただくなど助けてもらってはいますが、手つかずの耕地も多くあり胸が痛みます。「何もできない」ものとして手をつけずにきた自分を反省しつつ、自分の中で「懺悔の草刈」と称して管理のための草刈りだけは続けてきました。
が、ここ数年、自分が本卦がえりに近づいてきたせいでしょうか、父や先人たちが開き守ってきた農地を生きた農地として蘇らせたいと、強く思うようになってきました。
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落ち葉や刈草、もみ殻でたい肥作ってます!
元々、山も田畑も土も大好き花倉っ子。これからの農のことを一緒に語らえる人いないかな。そんな事を思う時、ゆらジェンヌと出会います。私の周辺にはない若い女子農業集団。めちゃくちゃ魅力的でした。勤めている私だけど、若くない私だけど、快く受け入れて下さいました。皆さんとにかく明るくてキュート。農業士さんや食いく先生の方も多く、専門の知識を携えておられるので何でも尋ねられます。色々な事を全てSNSで発信されているのも、私には未知の世界で、新鮮でドキドキワクワク。「できない」「やれない」ばかりのネガティブな私でしたが、今は、まずはやってみたら何とかなるんじゃないか…。ゆらジェンヌ魂に支えられてそんな風に思えるようになっています。
「荒地を増やさない。続いた農地を使い続ける。」私の命が終わっても後々まで続く命のため、生きる土地で採れる物を後世の食に繋げられたらと思います。熊、鹿たちと闘いながら、いつまで続けられるかわからないけれど、私はここから繋ぎたい。「ここ花倉」の地で。
そしていつか孫をばあばが作る野菜のとりこにしたいなぁ。と、そんなことを思いながら、私の懺悔の草刈りはもうしばらく続きそうです。
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