社交的に生きる面白さ

私が連日考えている非社交的な思考を、人と話す機会がありました。
割と思っていることをバリバリと話したのですが、やはり話の内容がわからないようで、話した後の今「話さなくてもよかったな」と自分の社交性のなさと自分が内包する世界を自分に誇示できた実感が残りました。

ですが、やはりもっと人ともっとちゃんと話したいという感想も大きくありました。それは私の世界観とは相反するもので、こう言ったよく分からない文を書いてしまっているという恥ずかしさもありつつ、今コレを書いていると言った感じになってしまっています。

私の中の正しさと人とわかり合いたいと言う社交的な正しさは、一体どちらが上なのでしょうか。

私の中の思考は論理に近く、人間の社交的な態度を取らないといけない感情とは正反対に位置しています。言ってしまえば世の中の全てを否定し逆張りしているのかも知れません。

ですが人と話すことはやはり楽しくて、感情の側が大きくリードした実感さえあります。
私の論理とは私の中の正論です。幸せになるためにはむしろその正論から逸脱した自己矛盾の先にある事を体感しました。
そして私の中の論理では情報よりも経験至上主義であって、やはりこの論理の思考ともオサラバしないといけないのかもしれません。

いや正確には一人では考えつつも、社交的な一面を持つ。ですが。

今の私は幸せになりたいとも思いませんが、それはきっと論理が感情を蝕んでいるだけでいずれ捲れ上がるり、私が本来すべきでもない幸福への追求をしてみてもいいのかも知れません。
非常に文化的で生産的で人間らしい思考に帰着してきました。

アホらしくてこの上ないです。人間らしいカスの人生を歩んでみるのもむしろ拷問っぽくて面白そうです。しばらくはそうやって生きてみます。


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