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おいしさのなかには

数時間前までイノシシに襲われて死んでしまったら周りはどんな反応をするのだろうと考えていた私は今、家に着き、泣くのを我慢しながら、ミニトマトを口いっぱいに含んでいた。ミニトマトが沢山のられている皿の横には、肉じゃががあった。
「今日は肉じゃがにしてみた」
と言われ愛を感じた。
「味見してみて」と言われ、大きいじゃがいもをお箸で半分に割り、食べてみる。
じゃがいもの甘さが私の全てを受け入れてくれる感じがした。
じゃがいものとなりの鶏肉は甘く、皮のテロテロ具合が下に優しく溶け込んだ。鶏肉はお母さんそのものだった。
にんじんは何色に染まる気配もなく、にんじんそのものの味をしていた。でも、やわらかく、のどにスッと通った。
それは反抗期のお兄ちゃんにどことなく似ていた。
おいしさが体の全てを駆け巡って、止まらなくなって、涙として溢れ出た。
おいしいものはこんなにも人を幸せにする力があるのだと思うと、食べ物に頭が上がらなかった。食べ物だけじゃない。それを調理してくれる人にも。あたたかくて、優しい味。
耳に馴染んだ、切なくなるほどの。包丁でレタスを切る音、お肉を炒める音、戸棚からお皿を取り出す音、卵をとく音。嗅覚から
視覚、味覚までもが、私を締め付ける。
締め付けて締め付けた後には、私を囲んでいた全てのものが私の中に馴染んでいく。
煮物を作った時の2日目の大根のように。
馴染んだ後は、慣れていく。慣れた後は飽きていく。
お昼も夜もその次の日のお昼もカレーだった時のように。


飽きたなんて言わせないために、美味しくないなんて言わせないために、今日も腕をふるう。冷蔵庫を開ければ、卵が、「今日は私の出番はあるかしら?」と期待する。

豆腐が、「僕、そろそろ賞味期限切れちゃうよ、いち早く食べられたいのに、こんな寒いところ居たくないよ。はやく味噌に会いたいよ」と淋しそうな声をあげる。

味噌は、「俺も会いたい」と一言。
それなら今日は味噌汁を作ろう。と私は豆腐と味噌を取り出す。もう1人は誰にしようと考えている間に、冷蔵庫が唸りだす。こんなに大きな体をしているのに、案外高い声を出すところ、かわいいよねと言えば、あら、これは世でいうギャップでしょ?萌える?
と言う。知らないよそんなこと人それぞれでしょ。と、冷蔵庫を開けて、わかめを取り出すと、
冷蔵庫からの返事は返ってこなくなってしまった。またいつか話せるでしょ。そういって、味噌汁を作る、味噌の色をした汁から、湯気が立ち込めて、私の周りを包む。豆腐は味噌と一緒になれて嬉しそうな反面、わかめがいちいちくっついてくるから少し鬱陶しそうだ。
「いいじゃなーい、私たちずっと一緒にくっついていたいんだもん」
「僕は味噌と一緒に居たかったんだ」
「離れてくれ」
弱弱しかった豆腐は味噌と同じになれば、最高のコンビネーションを果たしてくれる。わかめの存在感ももちろんちゃんとある。

みんないろいろあるけれどしっかり自分をもってて、調理されてひとつの料理になっても食材一つ一つの個性が生きている。

「今日はいつもと味噌変えてみたの」
「どうかな?」

「うん、おいしいよ、すごく。」

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