【こぼレビュー】機動戦士ガンダム サンダーボルト

書いた:太田垣康男
読んだ:マンガワン

 ガンダムシリーズの派生の世界観でのストーリーである。
 物語は初代ガンダムのラストのア・バオア・クー攻略戦に近い時期から始まる。戦争によって破壊されたコロニーやデブリだらけのサンダーボルト宙域を地球連邦軍は攻略しようとするが、そこにはジオン軍の凄腕のスナイパーがいて手をこまねいている。
 凄腕のスナイパーであるところのダリル・ローレンツ曹長を擁するリビングデッド師団は、開発中のサイコザクの実験を兼ねた部隊でありすべての隊員がカタワである。人は減るが増えはしない。そんな中、連邦軍ムーア師団は学徒出陣で一気に大勢を変えようとするが…。

 手塚治虫マンガの最終形態である。
 見どころは本当に多くて、1話1話に葛藤や対立があり、それはト書きではなく絵で表現されている。
 また、特に書き文字(オノマトペ)が魅力的で、コマの流れを補間するかのように書き文字の流れがあり、ややもするとイラスト集になりそうなロボットが多い画面をわかりやすく見せている。
 画面を跨いだり、時に立体的に見せたり、前例のない表現も多く実験的でもある。ロボットの動きはマンガでよく使われる動きを見せるブラー効果が全くつかわれていないので、動作を示すオノマトペが本当に有効に機能している。平均すればページ当たりで普通の漫画の5倍くらいあるだろう。

 本レビューの目的は基本的には時事によらず、10年くらいは読めるテキストを書くことにあるのですが、何故今回あえて手塚治虫の話かというと、下記のようなツイートがあったからです。

 手塚史観(日本の漫画を手塚一神教で評価するか否か)というのは近年では筋のいいひとによって否定されはじめていて、もちろんダサいなと僕自身思うわけですが、その一方この程度のカスが「居れてしまう」。広い日本語の世界に逆にストレスを感じる話ではありますね。

 この手塚史観の中で考えれば、本作品は完璧な形での手塚の子供であり、何故ならコアとなる部分はアドルフに告ぐだからだといえましょう。
 怠い部分(つまり戦後まで…話の8割くらいw)を完全に取り払ったアドルフに告ぐであり、そのマンガを構成する小さなプロットの集まり(ネーム)や映画的文法を画面に書き出す技術は手塚がついになしえなかった領域までたどり着いています。
 サイコザクだって百鬼丸だし…というつもりはなく、これは作者の以前の仕事であるフロントミッションのカレンデバイスからであろう。そういう意味では、本作には作者がこれまで手に入れたすべてを投入しており、魂の作品であることは間違いない。

 また、これはこのテキストで一番大事なところなんだが、本作品は「アドルフに告ぐ」と「機動戦士ガンダム」の芯を食ってる。つまり何かというと、連邦軍もジオン軍も(ユダヤ人もドイツ人も)”日本”なのだ。ジャップというやつだ。富野、手塚が戦争の形でなんとか書き出そうとした本質的な人間の部分、日本人らしさをこれでもかと書き出している。
 ここを捨てていないことが一番のポイントだろう。

 というように、完璧な形を見せられたうえでこういった手塚方式の漫画作品ー1話1話に葛藤と対立があり、わかりやすい人間関係と見せ場によって進むヒューマニズム連載漫画ーを今あえて全員が目指す意味ってそこまであるのかな、と思う。もちろん常に一つの選択肢ではあろうが、これだけの作品がある中ここで戦うのはかなり厳しいと思う。はっきりいうと…「順位」がついてしまう。
 本作はケチのつけるところが何一つない作品であると同時に、他の同様の連載漫画にはケチがついてしまった。そういう理論を手ほどきしている人間がいるからだろうが、未だに手塚の浅いパロディをせっかくのスキルで書かないといけない多くの漫画家の存在意義ってなんなんだろうか。
 なので僕の考えとしては彼ら老害のおじいさんたちが思ってるように現在の本邦漫画界とは手塚が示したものではなくて、手塚史観によってマンガはこうと思いこまされているものの互助会、というのが正しいと思う。

 週刊少年ジャンプで上位陣が似たような話で途方もないレースをしている中別に何も面白くない「王様はロバ」がずっと掲載されていたように、ある種の全員のそれなりの場所が連載漫画にもあってほしい。
 そう思ってしまうのも無理がないほどよくでき、よくできすぎた、手塚フォロワー・現代の最新鋭無敵弩級戦艦だった。

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