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オートキャンプ場と「先生」

 近隣にある総合公園にオートキャンプ場が建設されるという記事が今年の3月,「松本市民タイムス」というメディアによって大々的に発表されました。私のような「よそ者」は,静かな良い公園にそんなものができるのね,へえ…くらいにしか考えていなかったのですが,公園周辺の近隣住民の方々は,発表時点で住民説明が全くなかったこともあって,情報不足で様々な不安を感じているようです。ようです,というのは,前述したように私のような「よそ者」は,地域の重要な決定はこれまであまり関係してこなかったので,そんなものかと受け流していたのですが,それにしても昨今の「住民参加」を謳う都市公園行政の中では,最近なかなかお目にかからない手法だなぁとは,訝しく思っていました。
 最近ひょんなことがきっかけで,近隣住民の皆さんが今回の件でどのようなご意見や戸惑いを感じていらっしゃるか,明瞭にすることで,この件にまつわる地域全体の「もやもや感」の正体が明瞭になるのではないかということで,ただいま皆さんのご意見の取りまとめや,地域全体の意見の構造を簡単に分析に関わっています。これがなかなか興味深い結果が出ていますが,分析結果はそのうちどこからか発表されることになると思いますので,その議論はまた。
 この小さな地域の仕事を行うようになって最近,何人かの方々から自分の名字のあとに「先生」をつけて呼ばれることが増えてきました。「先生」…なんとも違和感のある呼称です。以前は確かに林業の専修学校の講師をしていましたので,教え子さんたちからそう呼ばれることもあったかと思うのですが,今は都内でスクーリングを行うこと以外に人に教えてお金をいただく仕事をしていません。そういう私がなぜ「先生」と呼ばれるのか,しばし考えました。
 私がこの小さな地域内で「先生」と呼ばれるようになったのは,前述した分析を行っていることがそのきっかけだったと思います。この分析作業は地域の一部の方々からのご依頼でしたので,当然無料で行っています。簡単な分析なので,まぁいいかという軽い気持ちで請負ったのですが,「先生」と呼ばれる頻度が高くなっていくとともに,何となく作業量が増えてきたように感じてきました。「ん。おかしいな。私ここまでしないといけないか?」と。
 ご依頼くださる方々は,丁寧で上品な物腰で「どうか先生,よろしくお願いします」と様々なことをご依頼くださいますが,その呼称で呼ばれる回数が重なるたびに「もやもや感」が大きくなってきます。そこでふと,ご依頼くださる方のセリフを噛み砕いてみると,私の職位や業績に対する尊敬によってそう呼ばれるのではなく,「無料で専門知識を披露してくれる都合の良い人」=「先生」ということが文脈から把握できました。というかそれ,当然分かっていたことなんです。しかし,そういうご都合主義のために働らかされているとは考えたくなかったので,その辺は自分の中であれこれ理由をつけて見ないようにしていました,実は。しかし仕事が増えていくにつれて,見ざるを得ない状況になってきたために,ここのところの「もやもや感」が増大してきたのでしょう。そこには「先生」という言葉が持つ,何とも甘美な響きが作用していたことは言うまでもありません。私の中の虚栄心がくすぐられたとも言えるのでしょう。でも気をつけてください。甘美なものには必ず「毒」もまた仕込まれているのです笑
 常日頃,とくに研究に関連する人付き合いの中で相手の方が気を使ってくださって「先生」と呼んでくださることも多いのですが,今までだいたい「さん付けでお呼びください」とお願いしてきました。やっぱり「先生」と言う呼称はそう言う職種や職位の方につけるもので,私のような,ド地べたの現場技術者(&野良の研究者)にはあまりそぐわない呼び名だと感じます。今回特にそれを感じました。日頃の「さん付け」のお願いは,何となく実態のない呼称に対する違和感だったこと,その実態のない呼称は大体が「都合よく使われること」が今回はっきり自覚できたのは収穫だったように感じます。まぁそれと,自分は「先生」という柄でもないです笑
 しかし,今回の仕事は自分の居住する地域の中での出来事,自分の専門にも関わる内容なので,様々な目新しい発見もあり,また地域の方々のご意見が利益誘導的とはかけ離れた大変「利他的」で納得がいく内容でしたので(この辺はさすが文化都市松本市という感じがします),「もやもや感」を超える楽しさがあったことは付記しておきます。オートキャンプ場をめぐる多くの方々の「もやもや感」は,私の中で長い年月燻っていた小さな「もやもや感」をも刺激したことは,今回ちょっと興味深かったです。
 オートキャンプ場についてはまた書くかもしれません。これもなかなか面白いですよ。



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