他人の憎しみに過度に干渉しない

今年最後に思ったこと。
他人の憎しみを否定しない方がいい。

誰かが、誰かや何かを憎んでいるとき、その対象によっては「憎しみなんて何も生まないよ、憎しみを捨てよう」といいたくなることもある。例えば特定のメーカーを蛇蝎のごとく憎んでいる人。例えばテレビに出てくる有名人を憎んでいる人。生きてる限り絶対にどこかで目につくから、一々憎んでいたらキリがない。

ただ、第三者からすれば無意味に見える怒りや憎しみも、本人だけにしかわからない事情があるかもしれない。
「憎むのをやめようよ」というのは実に綺麗な発言だけど、第三者に言われたくらいで憎しみが消えるなら苦労はない。もちろん諫めたりするのは自由だけど、それで他人の気持ちが変わると思っているならそれは傲慢というものだ。「もしも気持ちが楽になるならラッキー、そのために自分が憎まれたり嫌われても受け入れる」くらいの気持ちで言うなら止めないけど。

憎しみという感情は、怒りとか負の感情が昇華できなかったときに残るもので、そもそもそんなに簡単には処理できない。個人的には、憎しみを抱え続けることは心身によくないが、一番まずいのは「憎んでいるのに憎んでいることを認められない、認識できない」ことだと思う。身近にいる人も、これで病んだ。

むしろはっきりと憎しみを表明している人もいる。こっちの方が健康的に見える。
さくらももこは「もものかんづめ」

の【メルヘン爺】の項ではっきりと肉親への憎しみを書いている。曰く『祖父は最低の人間であり、大嫌いだった。漫画ちびまる子ちゃんの祖父は自身の理想像であり100%創作である』と。肉親である祖父が死んでせいせいした、という記述に、賛否もあったし、僕も初見で個人的なさくらももこ像が崩壊してしまい、地味にショックであった。ただ、肉親であろうと、あるいは逃げ切れない関係である肉親だからこそ憎むということもあるのだ。そういう人間のどうしようもない赤裸々な感情を、あれほどの有名人が正直に書いたことは大きな意味があったと思う。さくらももこ本人にその気はなかったと思うが、あの本で「家族を憎む人間の、憎しみという感情」に市民権が与えられたように思う。

憎しみにとらわれて他人に危害を与えるならともかく、憎むだけなら自由にしたらいいと思う。憎しみを認めて、それが自身や他人に害があるなら可能な範囲で処理していったらいい。そう思う。

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