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「フェンス」 横山 睦(むつみ)

 果てしなく落ちる夜のスピードは透明な色でした。
 灰色や黒色ではありませんでした。桃色と水色と紫色を混ぜて薄めたような初恋に似ていました。重力を失って太陽が沈もうとする夕暮れの空に投げ出された感覚です。
「何かに捕まらなくちゃ」とミキは手を伸ばしました。
 太陽が沈むと星が見えない夜がこの街にやってきます。このままでは永遠に宇宙を漂ってしまうと思ったからです。ミキは怖くありませんでした。怖くないんだと自分自身に言い聞かせただけの強がりだったのかもしれませんし、本当に怖いものなんてないと純粋に思っていたのかもしれません。でも、アスカに嫌われて会えなくなってしまうかもしれないと考えるとミキは不安に襲われて涙が溢れてしまったのです。

 ミキの記憶の中のアスカは茶色のセミロングストレートでいつもふんわりと香るのはシャンプーの柑橘系の匂いでした。髪が伸びてくると無造作にゴムで括るアスカの仕草にミキは同じ女性でも惹かれたことがありました。ミキはヘルメットを被る時に髪の毛が邪魔になるからと髪型をショートで刈り上げにしていたので、心のどこかで髪が長い女性に憧れがあったのかもしれません。ミキは刈り上げていない部分を金色に染めていました。私は私として生きていくんだという決意の表れでもありました。

「明日、『おはよう』ってアスカに言えるかなぁ……」
 どんな顔をしてアスカと会えば良いのか、ミキにはわからなかったのです。もし、アスカの方から声を掛けてくれた時にミキは自然に笑える自信がありませんでした。
 ミキとアスカは同じ高校に通っています。白色のブラウスに紺色のブレザー、胸には赤色のリボンを付けてスカートは緑色のタータンチェック柄。可愛い制服に憧れて進路を相談して決めたのではありません。この街には幼稚園から大学まで一つの学校しかないのです。ミキとアスカは必然的にずっと一緒でした。
 ミキはスカートが自分では似合わないと思っていたので、校則で決められた実習用の作業服であるオリーブ色のツナギを着ていました。でも、ミキ以外の生徒には人間が工具を使って製造をする実習は不人気でした。全ての製造をAIやロボットが担当するこの街では、“ものづくりの原点を知る”という授業の科目がわずかに残っているだけだったのです。
「……あんなことを言わなければよかった」
 布団の中でうずくまりながらミキは後悔をしていましたが、アスカに言わないままの方が後悔していたかもしれないと思いました。ぐるぐると思考が何周も駆け巡って結局また同じスタート地点に戻ってきてしまうのです。次第にミキの頭の中は真っ白になっていました。それは鉛筆で書いた字を消しゴムで何度も消したような色でした。

 いつの間にか寝てしまったミキは少し不思議な夢を見ました。
 夢の中にもアスカが出てきたのです。驚いたミキは掴んでいたタオルケットで泣き腫れた顔を隠そうとしましたが夢の中なのでミキは自由に体を動かせません。すると、今まで鮮やかだった景色が突然真っ黒になってしまったのです。
「ねぇ、アスカどこにいるの?」ミキは暗闇で声をあげました。
「お願いだから返事をして……。行かないで!」
 ミキには夢の中の出来事という認識はありませんでした。ふわりふわりと舞う黄色の蝶々のようにアスカがどこかに飛んで行ってしまう気がしてミキは焦りました。
 その時、カチッという音と共にパッションピンク色の光が暗闇で輝き始めたのです。それは2本のペンライトの内1本を光らせて持っているアスカの右手でした。最初は暗くて誰の手かわかりませんでしたが、アスカはミキの傍にずっと居てくれたのです。
「……が好きなんだと思う」
「えっ?」
 アスカの言葉を正確に聞き取れませんでしたが、ミキの心に仮止めしている待ち針を誤って刺してしまった痛みが走りました。ミキは動揺して何も言えません。無言の二人だけの時間がどれほど経ったことでしょう。先に口を開いたのはアスカでした。
「電気を食う人はサイバーパンクが好きなんだと思う」
 こんなことを言ったのです。予想外の言葉でした。ミキには意味がわからなかったからです。
 状況を把握出来ずに混乱するミキに対して、大丈夫だよ、と微笑みながら安心することを囁いてくれた気がしました。そして、アスカはもう一つのペンライトを今度は青色に光らせるとミキに渡しました。
「ペンライトって青色や緑色、赤色やパッションピンクは電池が長持ちするんだよ。停電すると真っ暗闇で不安なこの街の中で青色やパッションピンクが輝くの。だから、電気を食う人はサイバーパンクが好きなんだと思う」
 あっ、とミキは思い出しました。ミキとアスカが生まれ育ったこの街は音楽も演劇も小説も禁止されています。どこで手に入れたかわかりませんが、大人たちに隠れてアスカは小説を読んでいるという秘密をミキに打ち明けてくれたことがありました。だから、ミキも秘密にしていることをアスカに言ったのです。「私はゼロハンカーに乗りたい」と。
 その時のアスカは少し考えた後に、「サイバーパンクのイメージは巨大な権力が街を支配していて、不気味な夜の街にピンクや青色、黄色や紫色の電飾が輝いているの。どうしてイメージカラーがあるんだろう?」と言ったのです。
「イメージカラー?」ミキは聞き返しました。
「誰かが作った常識や固定概念に苦しめられるくらいだったら、そんな壁はぶち壊せばいいのに。女の子のミキがゼロハンカーに乗れないなんて誰が決めたの?」
「……」
「一度きりの人生だから、ミキの好きなように生きればいいんだと思う。私が出来ることがあれば協力するね」
 パッションピンク色のペンライトの光のおかげでアスカが笑顔で言ってくれていることがミキにはわかりました。不安に押し潰されそうな真っ暗闇の中で光があることがミキにとってどれほど心強かったことでしょうか。この街で私は一人じゃない、とミキは思えました。いつもと変わらないアスカの笑顔に救われたのです。アスカから手渡された青色に輝くペンライトをミキは握り締めました。青はスタートのシグナルです。
「……うん。アスカありがとう」
 そう言うとミキは目が覚めました。次の日の朝になっていたのです。


 学校に行くまでの道がこの日はとても長く感じながら歩いていました。ミキは誰にも聞かれないほどの声で、おはよう、と繰り返し呟いていました。通学路でアスカといつ出会ってもいいように心の準備をしていたのです。前を歩いているアスカの姿がミキの視界に入りました。一気に鼓動が高鳴ったことをミキは自分でもわかりました。体が熱くなり全身から冷却する為の水分が溢れ出て機能が失われてしまう感覚。もし、ヒューマノイドロボットだとしたらオーバーヒートして自動停止になっていたことでしょう。声を掛けられず距離を詰められないまま歩くことしか出来ませんでした。
「……ミキ、おはよう」
 不意にアスカが振り返りミキに気が付いたのです。
「あっ、アスカおはよう」
 反射的にミキはアスカに返事をしました。
 すぐにミキの頭の中で思考が駆け巡ったのです。今のおはようの挨拶は練習通りに出来ていたんだろうか、驚いた表情になってしまって自然な笑顔になっていなかったかもしれない、と思ったからです。
「……昨日のこと」
「あっ、私が変なことを言って本当にごめんね。昨日のことは気にしないで」
 アスカの言葉に重なるようにミキは早口で言いました。このままでは気まずくなると感じたミキは話題を変えようと言葉を続けました。
「そ、そういえば、排気量50ccの中古のエンジンが手に入ったんだ」
「……旧式のエンジンがまだこの街に存在してたんだね。ミキ良かったね」
 アスカがミキの意図を読み取ってくれたのかはわかりません。でも、笑顔でミキの話に乗ってくれたのです。
「学校の授業が終わったら、パイプフレームを溶接して車体を組むんだ」
 自分で作るゼロハンカーの話をアスカにする時のミキは生き生きとしていました。ミキにとってそれが自然な会話だったのです。

 この街は元々クルマ好きな人々が集まって出来た街です。AI技術が発展したこの街では自動車は完全自動で運転する車だけになり人間が運転することはありません。唯一、この街で運転が認められていることはゼロハンカー・レースでした。
 子どもの頃にレースを見たミキはゼロハンカーに憧れたのです。観客席での声援や歓声、クルマ好きな人々の熱狂が伝わりそれまで全く興味が無かったミキは大好きになりました。ミキの印象に残っているレースは夜に行われるナイト・セッションです。サーキットに幻想のようにライトの光とブレーキランプの光が輝き、観客席では赤色や緑色や青色などそれぞれのペンライトを振って応援します。エンジンやタイヤの音の迫力にミキは圧倒されたことを覚えています。
 いつしかミキはレースを見るだけではなくて、自分もゼロハンカーに乗ってみたいと思うようになりました。レースにエントリーして自由自在に操って走ってみたいと思ったのです。しかし、ミキが高校生になった頃にはAIを搭載した自動で運転するゼロハンカーがレースを支配していました。人間が運転するゼロハンカーは勝てなくなってしまったのです。
 それでもミキはゼロハンカーに乗るという夢を諦めませんでした。
 AIに勝てる自信はありません。でも、ミキにはゼロハンカーに乗りたい、自分でやってみたいという気持ちがありました。大人たちから「絶対に無理だ」「無駄なことに労力を使うな」と言われてもミキは諦めませんでした。ゼロハンカーが好きだから。これがミキの純粋な“原点”なのです。どんな困難なことがあっても諦めなかったミキがゼロハンカー・レースでデビューすることになるのはもう少し後になってからです。

「……ねぇ、ミキ聞いてる?」
 通学路を歩きながらアスカが言いました。
「あっ、ごめん。聞いてなかった……」
「学校に着くまでの間、手を繋ごっか」
「えっ?」
 ミキは驚き過ぎて思わず変な声が出てしまいました。嬉しかったからこそ挙動不審な行動を取ってしまい咄嗟に両手を隠しました。
「わ、私の手はゴツゴツしてるから……」
 工具を扱う手、ハンドルを握る為に鍛えている手をアスカに見られたくなかったのかもしれません。
「そんなの気にしないよ。女の子同士で手を繋ぐのは変かなぁ?」
 アスカの言葉にミキは、それをこの私に聞くのか、と思いましたが何も言えませんでした。
「もし、私とミキの間に見えない壁みたいなフェンスがあったとしてもフェンス越しにミキと繋がれると思ったから」
 悪気がなくアスカが言った言葉がミキに突き刺さりました。それは透明なフェンスがあるっていうことなのだろうか、色が付いていたら二人の間にフェンスがあるってわかるのに、アスカは一体どういう意味で言ったのだろうか、その壁はぶち壊してもいいのだろうか、とミキを悩ませたのです。
 アスカは手を繋ぐ為に右手を出しましたが、ミキは一歩引いてしまいました。
「やっぱりこの右手は嫌なんだね」
「ち、違う! そういう意味じゃない」
 ミキは否定しましたが、アスカは太陽の光に反射して銀色に光る自分の右手を眺めながら哀しい表情になっていました。事故により体の半分をヒューマノイドロボットとなったアスカの全てを受け入れていたはずのミキの方が心の壁を作っていると受け取られてしまったからです。
 涙を流しながらその場から去ろうと走り出したアスカをミキは追いかけると必死に手を伸ばして捕まえました。この手を絶対に離したらダメだと思ったのです。
「アスカ聞いて!」
 ミキは大声で叫ぶように言いました。通勤や通学で多くの人が行き交う道で周囲の目を気にせずに言ったのです。
「私はアスカのことが好きだから! どんなアスカだって大好きなんだから。もし、これから困難な壁が目の前に現れても、そんな壁はぶち壊してみせるから!」
 青空の下でミキは想いをアスカに伝えました。二人は最初の一歩を踏み出すのです。

〈了〉


『フェンス』横山 睦(むつみ) サイバーパンク(4901文字)



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