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人の苦しみ、自分の物差し(後編)

『針よ墜とせぬ、暮夜の息』が
いよいよ10月にリリースを迎えた。
これは12月にリリースした2ep「DUMELA」から
先行配信されたシングルとなり、リード曲でもある
『灰々』へ続くDannie Mayの序章的な意味合いもあった。

この曲を初めて聞いた時、
そしてMVを作るにあたって、
まず浮かんだのは登場人物が2人とも女性だったということ。
そして、主人公はどうにもならない苦しみの中にいるのだということ。

そのイメージをデモをあげてきたマサに共有し、
そのまま再解釈して音源を仕上げてもらった。

人の苦しみ、自分の物差し。

僕はこのテーマについて初めて対峙したのは
おそらく小学校1、2年生の頃だったと思う。

当時、"何か習い事をやった方がいいのでは?"
という理由にもならない理由で様々な場所へ体験入部へ行かされていた。
水泳、小学校クラブチームの野球、サッカー.....
しかし極度の人見知りなので、どの環境にも馴染むことはできず、そして何よりそんな理由で行かされているから全然興味を持つことができなかった。

中でも少年野球の体験に行かされた時の話だが
チームのコーチが体験に来た児童に野球の楽しさを教えようとあの手この手で野球とはなんたるかを
見せてくれた。
僕はバッターボックスへ立たせてもらい、
上級生(おそらく6年生だったと思う)のピッチャーから球を打つという体験をさせてもらう。

投げた球はまっすぐ僕を目掛けて飛んで、
そしてそのままこめかみにダイレクトヒットする事になる。
一瞬何が起きたかわからなかったが、
すぐさま思う。

痛い。つらい。


とっさにバッドを置き、頭を押さえ
「痛っ!」と叫ぶ。
それはそうだ。
上級生の鍛え抜かれた球が、未経験の下級生の頭に直撃したのだから。


さて、それを見たコーチは何故か僕に向かって怒りをぶつけてきた。
そしてこう言う。

「痛くない。続けなさい!」

幼心にその返答に不思議さを感じた。
「何故俺が怒られている?」
そしてこの状況で痛いかどうかを決めるのは、
お前ではなくこの俺だろうと思ったのをはっきり覚えてる。

結局、そう言われても痛いものは痛いので
バッターボックスからベンチへと戻り、
そのままその少年野球チームには入らない事にした。
人の苦しみを自分の物差しで測る人とは一緒にスポーツはできない。
そう思った。

ここからこのような不思議な体験は年齢を重ねても
多々する事になる。

中学の頃、
部活で試合中の接触により腫れ上がった足、
正直立てないくらい辛かったが監督は
「そのまま試合に出続けろ」と指示をする。
結果その後も(体感だが)5分間くらい出ていたと思う。
結局審判に止められ、強制的に退場させられたが
そのとき助かったと思った。
足首の靭帯を伸ばしていて、全治3ヶ月くらいだった。

高校の頃、
勉強のしすぎで寝不足になった時、
徹夜で疲れたな眠いなと言う話をすれば、
「そんなの序の口だよ、俺なんて〜」と
何故かまた自分の物差しで僕の苦しみを測り、
そして勝手に比べられ、結果僕の体験は

「自分に比べれば大したことがない」


という頼んでもないレッテルを貼られる。


正直、あげればキリがないほどこのような経験をしてきた。
そして2020年、時代は令和も2年目を迎え少しずつ
時代が変革していき、多様性について目を向けられるようになる。
個々人の好きなモノ、ヒト、コトをお互いに認め合える世の中になりつつあったし、
互いの価値観を尊重し合ういい時代になってきたな、と思っていた。

しかし、ひとつだけまだ足りてないと思ったことが"個人的には"あった。

それがそう。


「人の苦しみに対する捉え方」

である。
(現在もだが)誰も予期せぬ形でコロナ禍になり、
様々な立場にある、様々な人達の、様々な苦しみが
SNSをはじめ露呈する事になる。

とりわけ僕たちは
誰かの苦しみに対する捉え方と想像力が未だ足りてないと僕は考えている。

何故なら、やはり何処か
「人の苦しみを自分の物差しで測る」ところが
僕らにはあるからだ。

Dannie Mayの活動も去年3月上旬のライブを最後に
一旦ストップする事になるが、
SNSを開き常に時代の動向を掴むようにはしていた。
今みんなが感じているのはどんな事なのだろうかと。

もちろん、これは僕の側面から見た"個人的な"話でしかない。
だから全体がこうだとは思わない。
ただ、僕の目からはそう見えた。それだけの話だ。

世の中では自己責任論と、どうにもならない自分の現状を他責にしたい感情が飛び交っており
連日の「誰かの悲痛の叫び」は
議論の的にされていたし、
論客の格好の餌食となった。

そして次第にそれは
苦しみ・不幸合戦、そして妬み僻みへと繋がり、
そもそもの発端である「誰かの悲痛の叫び」には
目も向けられなくなる。

そのようなものばかりが目に入ってしまい、
僕は感情が追いつかず疲れてしまった。
まあこれも目にした自分が悪いのだろう、と言われてしまえば返す言葉もないのだが、

とにかく僕は疲れた。

お互いを尊重し合う事ってこういう事だったっけ?
何故個々人のプラスの感情には尊敬し合えるのに、
マイナスの感情には寄り添えないのだろう?

そう思うようになる。

そう思った時から、何が足りないのかが見えてきた。

それは他者を受け入れる圧倒的な余白だ。

無論、人のマイナスの感情を包み込めるほどの余裕なんてなかなか無いのは分かっている。
ただ、だからといって誰かの苦しみを自分の物差しで測っていいはずはない。

だから、"余白"が必要なのだ。
いい意味で干渉しない。
もっと言えば、事実として受け止めてあげて、
「苦しい」と言う誰かの言葉に耳を傾ける。
自分的には納得できなくても、一定の理解はしてあげる。

そうした"優しい余白"がもっと必要なのだと思った。

結果この優しい余白というのは、自分が窮地に立たされたときにも力を発揮する。
自分自身に対しても、この余白は使えるからだ。


きっと誰かの苦しみというのはとてつもなく純度の高いものだと思う。
そしてそれを受け入れるだけの余白が人には必要だと思ったからこそ、
この作品を純粋にぶつけたかった。

このMVの主人公は、自身の境界線を誰かに委ねられない「苦しみ」を抱えている。
謎めいた彼女の登場でその境界線は曖昧になり、自分を相手に委ねる事を決意するのだが、
その日に起こった幻のような夜は、息を吐くように瞬く間に消えてしまう。
初めて境界線を委ねた相手なのに、
勇気を振り絞ったのに、彼女は唐突に捨てられる。
どこにも終着できない彼女の心と不条理な環境は
更に彼女自身を苦しめてゆく。
それならいっそ、全てを壊して仕舞えばいいと思う程に。


「針よ墜とせぬ、暮夜の息」

https://youtu.be/2Ycxl34s_Nk

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