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drowning in signifian

✳︎上田ゼミ作文課題
✳︎テーマは「音」



 クジラがコミュニケーションのために出す鳴き声のことを、クジラの歌、と呼ぶらしい。メロディラインのように反復的な型があるからだ。検索すれば動画がいくらでも見つかる。ふしぎなリズムがあって、底無しに落下していく不安も、反響に包まれる安心感もある。怒号のような、慟哭のような、聖歌のような音。クジラは私に向けて歌っているわけではないので、勝手に感情を当てはめるなんて失礼にあたるのだろうけど。

 誰かに不愉快なことを言われるとき、会話を穏やかに諦めるとき、相手の声がメロディを帯びて聞こえる。よく動く唇を、反論する気力を失いながら何となく眺めていると、その旋律は想像よりずっと楽しげで舞台役者のような自信に満ちていて、人を傷つけるときに攻撃性の自覚なんてちっとも必要ないのだと知る。同時に記憶を引っ掻き回して、自分の罪も数える。
 また、深夜に自室でひとり、音楽やテレビを消しても、うるさくて堪えられないことが多い。家電や隣人のささやかな生活音が気になるのではなく、それさえ掻き消すほど自分の声が大きいのだ。実際に発声器官を使って喋ることもあるし、脳内で延々とおしゃべりが聞こえることもある。分裂症、メタ認知、自己否定、ひとり反省会、易しい専門用語で何となく伝わるだろうから内容に深く言及するつもりはない。ただ、そこに耳を澄ませる第三者がいないので、音声言語にも脳内言語にも境界がないことは確かだ。音や色や風や輪郭でさえ言語中枢で捉えてしまうのは私の悪癖で、だから私にとっての“音”は、物理的な音波だけではなく、内外問わずからやってきて頭を埋め尽くす“言葉のようなもの”の総称だった。
 YouTubeに、平沢進の「パレード」という曲と、今敏監督の映画「パプリカ」に登場する無機物のパレードを組み合わせた動画がある。これらの描く皮肉自体はシンプルなものだが、異世界を思わせる荘厳なメロディや、やたら高揚感があって現実と非現実の境が曖昧になっていく映像は、風刺を超えて見るものを圧倒する。私は初めて見たとき、圧倒されながら、共感でヘッドバンギングをする勢いだった。これだ、私が学校や都会にいて目眩がするのはこういう感覚だ、と。音の存在も不在も平等に、言葉が有る限り、人間が五感で捉える世界はあまりにうるさくて、耳を塞いでも意味がない。お前なんかまるで取るに足らなくて簡単に無視できる存在だという顔をしながら、外界や私自身が喧しく話しかけてくる。その善も悪も虚無も纏った情報量から、私は死ぬまで解放されない。本当の孤独にはなれない。その逆にも。沈黙はイデアだ。それなら言語は、現象にすぎないのか?

 “クジラの歌”の周波数は基本的に10〜39ヘルツの高さだが、世界には1匹だけ、52ヘルツで鳴くクジラがいる。周波数だけでなく、鳴き方も行動パターンも他の種と異なるその個体は、発見から20年以上に渡り鳴き声が聴取されていることから考えて、どうやらたった1匹で健やかに成長を続けているらしい。深く、広く、滑らかな太平洋の真ん中で、誰にも届かない言葉を発しながら生き抜くクジラ。その巨躯。小さな瞳。太陽を浴びる皮膚。重力に縛られない悠然とした泳ぎ。どんなに美しく歌っても、群れをなす他の海洋生物はみんな、理解不能な彼の声をBGMに通り過ぎていく。52ヘルツで鳴くクジラは、世界で最も孤独なクジラと呼ばれている。
 生き物のあり方を感傷の材料にするなんて品がないと自戒しながら、私はこのクジラに対する憧憬を禁じえない。誰にも届かないし、誰にも話しかけられない、その様はきっと自由で、少しも寂しくないのだろうな。相手の存在を考慮せず発信し続ける声は、端から見れば気狂いするほど虚しくて、身軽だ。言語化に侵されたちっぽけな脳で52ヘルツのクジラを想像しながら、今日も、誰が読むともつかない文章を書く。友達にLINEを返す。家族におはようとか言う。肺で気流を作り出し、声門や口腔の開閉を操作して振動させた空気が、意味を伴って誰かの聴覚を刺激する。或いは、視覚から言語野へ直接目掛けたり。或いは、記憶から発露したり、想像したり。生きるほど、音が積み重なっていく。

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