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Get ready with me.

3年前くらいまでの私と今の私の両方に会ったことがある人はわかると思うのですが、近頃、明らかに選ぶ服装が変わりました。


昔着ていたのは、
小6の女の子に「なにその格好、目を疑うんだけど」って言われた真っ赤なシャツとか、イオンで買った充血がリアルな目玉おやじのシャツとか、ドナルドダックのアカン方の親戚みたいなアヒルが顔よりでっかくプリントされた蛍光のパーカーとか、そういう。派手好みだったわけじゃないけど、かわいいと思うものを選んだら自然にそうなっちゃうタイプでした。


今は主に、GRLというめちゃくちゃ安い通販サイトの、ワンピースカテゴリのページを人気順で検索して、出てきたものを上から順番に買っています。明らかに丈が短くなくて、明らかに派手じゃなくて、明らかに整った顔を必要としているわけじゃないものを季節の初めに3、4着選んで、買い物は終わり。試着もお店巡りも必要ない。欲しい服の値段タグを見て心に冷風が吹くあの感じもない。よきかわるきか。


垢抜けたね、と言ってくれる人もいれば、昔の服が好きだった、と言ってくれる人もいます。どちらも愛を感じてすごく嬉しい。
(ちなみに1番おもれかったのは「好きな人できたから服の系統変わったんかと思った」です。素敵解釈キタコレ)


たくさんの人に支持されているGRLのお洋服は袖がぎゅとなってたり裾がふんわりしてて可愛いし、とても無難だから、着ている自分がまともな人間になれた錯覚がして楽しい。


こう説明すると、なんだか私が没個性化の一途を辿っているように見えるかもしれないな。
でもほんとうに、そういうつもりではないのです。
昔着ていた服も今着ている服もどちらもほんとうに可愛くて、なにより最も重要な点は、どんな服だろうがその中に入っている私の個性にはひとつも影響していない、ということです。
私はいつでも、私の個性を表現なんかせずに匿っている。そこに入れ物の柄は関係ない。


最近は学校でモード論という超おもしろ(くて出席が厳し)い授業をとっていて、服ってなんのために着るのだろう?とよく考えたりしています。
防寒のため、身体を守るため、身分差を表すため、男女差を表すため、自己表現のため。


いろいろ理由はあるけれど、やっぱり服装は社会性と切っても切れないものだと思います。それは、林檎を食べた瞬間に恥じらったアダムとイヴや、酔うとやたらと脱ぎたがる大学の先輩から学べること。
でもそれって、たかが社会性、という考え方もできるわけで。


小6女子に目を疑われていた時から、変な服=個性的という考え方は、なんだかつまらないなあと思っていました。お店で売っている限りその服は誰かとお揃いで、本当に個性を表現することなんてできない。


私は数年ぶりに会うお友達とユニクロのワンピースが色違いでかぶってても、我々に別々の、特別な時間が眠っていることを知っています。
大切なのは「私がどの服を選ぶか」ということじゃなくて、「私がその服を選んだ」という事実で、個性と呼ぶならそれだけで、それ以上でも以下でもないのだ🦑

纏うのが目玉おやじでもGRLでも、それは派手とか無難という名の仮の装いでしかなくて、たぶん、本当の私は外からじゃ誰にも見抜けない。
個性は着ている服で判断できるほど表面的なものじゃないんだ、こだわりの有無は関係なく、服なめてるやつは、たぶん人間なめてるやつなんよ。

私は関わり方が変わっても服を着ることが(ほんとうにものすごく面倒くさいという気持ちはあるけれど)ずっと好きだし、その一方で、これから趣味が変わっても、すきぴの要請でミニスカートを履きだしても、何にも関係ないなという気持ちもあります。
みんなが好きな服を着れる世の中になるといいね。



それとは関係ありそうでない話だけど、どんなものにも「かわいい」って甲高く一蹴するうちらの法律は、歴史上見ても指折り数えれるほど天才的な発明だと思いませんか。発明とは、文明をよりスムーズに発展させるという意味です。発展#とは

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