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【映画感想】彼らに生きることを許さなかったは誰なのか「シチリア・サマー」 

また同性愛者の美しい少年が死ぬのか、という諦めの呟き。覚悟と自責。「生きるための多様性」という言葉が迫ってくる。

12月初め、一人で、吉祥寺のミニシアターに向かった。地下2階にひっそり存在しているらしい。エスカレーターで下っていった先に、暗いトンネルが横たわっている。深く青光りしているそれを抜けると、意外にも広い空間が広がっていた。別世界に誘い込まれる。パステルカラーの可愛らしいトイレの脇のベンチに腰を下ろすと、「ビジュアルに殴られる」という文言が目に入った。壁に掲示されているのは、上映中の映画「オオカミの家」の講評である。思わず読み入ってしまい、時間を忘れかけた頃、上映開始を知らせるアナウンスが響いた。

小さな入口をくぐって、落ち着いた黄色の座席に座ると、体が深くまで沈み込む。没入の予感。次々と流れる予告編を見ながら、このシアターに通い詰める決心をしたところで、映画の本編が始まる。ギリギリにシアターに入ってきたおばさまも、やっとご自分の席に着席。ふーっと息をついた瞬間、目の前にシチリアの美しい自然が広がった。

永遠を感じさせる広い野で、3人が狩りをしている。いや、正確には2人だ。まだ幼いトトは、銃声に、ウサギの死体に、全身で恐怖している。狩りの場に似合わない、純粋な微笑みで彼を励ますニーノ。悲劇の始まりはいつも美しい現実の不穏さにある。

シーンが移る。

男たちが街でたむろしている。整備工場から出てきたジャンニは、男たちに嘲笑される。ジャンニは危うい。自分の傷に気づかないふりをしなければ生きていけないのは、危うい。ジャンニが同性愛者であることは、街の知るところである。

そんな2人、ニーノとジャンニが出会うシーンは圧巻であった。まさに抗うことのできない引力が互いを惹き合い、衝突する。目を逸らしたくなる。

物語は常に死を見据えて進む。2人が祭りで打ち上げた花火を共に寄り添い見上げるシーン。これが彼らの幸福の絶頂であろうと予感した。

だが、杞憂であった。

イタリアのワールドカップ勝利に沸く雑踏をくぐり抜け、ニーノがジャンニを迎えに来る。彼が恋人の名を叫ぶ。それだけで、確かに灯ったジャンニの笑顔は、私の触れられないところにあった。

必然かのように2人は殺される。死は見えない。私たちにはどう頑張っても見えない。後から音だけが届く。残響。2発の銃声は、重いようで軽く、軽いようで重い。

エンドロールの直前にテロップが流れた。
「彼らの死により、イタリア初のLGBTQ+支援団体が生まれました」
心が乾いた。
失われなければ気づけない。その現実は、周縁化された者たちを「失わせてやろう」と駆り立てる。
いなくなってしまおう。そうすればやっと誰かが気づいてくれるから。

赤ぎれで傷ついた手を必死に差し伸べ、息子たちをかばい、殴り、共に生きようとしていた母たち。暗闇に佇むニーノを心配し、探しに来た、夜には家に帰らない彼。ラジオを響かせ、ワールドカップを邪魔していた老人。
もはやだれが悪者か分からない、だれが差別者なのかも分からない状況で、一つだけ分かっていたのは、2人は何も悪くないこと。ただ、生きのびようとすることがどれだけの痛みを伴うか。想像もつかない、自分に、苛立つ。

シアターを後にし、書かずにはいられなくて、こじんまりしたカフェに入った私の頭に恐ろしい問いが浮かんだ。2人にとどめを刺したのは、トトだったのだろうか。

彼らを無言で眼差し続けていたトト。ニーノと運命共同体だと言われ、喜んでいたトト。嫉妬してジャンニの足に砂をぶっかけていたトト。ニーノの呻き声を聞き、彼と寄り添うようにドアの外で座り込んだトト。初めはあんなに怖がっていたのに、いとも簡単に自分の殺したウサギを持ち上げてみせたトト。

彼が希望であったのか、はたまた気まぐれな子どもであったのか、被害者であったのかは分からない。よく、分からない。ただ、トトが傷とともに、それでもなお生きていることを祈る。

映画のもととなったジャッレ事件を調べた。殺害犯行を自白したのも、被害者の甥、13歳のフランチェスコ(作中のトト)であったという。
だが、私たちは彼らを死に追いやったのは、13歳の少年だけでないことを知っている。
本当は誰であったのか。私たちは知っている。
私たちは、私たちが、彼らに死の結末を用意したことを知っている。

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