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【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・5 最終回】旧・因幡霊場と現役の因幡霊場

鳥取市の火葬は1921年(大正11)から1974年(昭和49)頃まで、50年以上の長きに渡って丸山火葬場が担ってきましたが、1974年頃に「因幡霊場」が新築されてそちらに移転しました。
その後、この施設も老朽化のため、2000年代に入って新たに現在稼働中の因幡霊場が建設されました。
旧丸山火葬場の紹介と鳥取市の概要については、前項をご覧ください。
【鳥取県東部(因幡)の火葬場訪問・4】鳥取市の旧丸山火葬場跡|Yuniko note

因幡霊場

因幡(いなば)霊場は1974年頃に稼働開始したと思われます。丸山火葬場の老朽化と周辺の市街地化に伴って移転がなされたのでしょう。
所在地は鳥取市南部の八坂(はっさか)という山あいの地です。

鳥取市と岡山市を結ぶ国道29号線を南に向かっていくと、「因幡霊場」という案内板があります。案内に従って国道29号線から左にそれて側道に入り、そのまま道に沿っていくと丘陵に入り、やがて因幡霊場に到着します。

因幡霊場入り口
建物が少し見えます
因幡霊場入り口
すぐ西隣(写真右手)に広大な因幡墓苑があり、早朝の墓参の人のために門が開いています
因幡霊場を示す石碑

旧・因幡霊場跡

因幡霊場を示す石碑が年季が入った感じですが、それもそのはず。この石碑は1970年代に先代の因幡霊場が造られた際に一緒に建てられたものです。
つまり、この奥に先代の因幡霊場が建っていたのです。

旧・因幡霊場跡

写真の左側に「因幡霊場」の石碑が見えるでしょうか。そのすぐ後ろ、小高い丘の前に旧・因幡霊場が建っていました。
旧・因幡霊場は現役の因幡霊場の駐車場になっています。

旧・因幡霊場跡と現役の因幡霊場
左奥に、現役の因幡霊場の火葬棟が写っています

新旧の因幡霊場の位置関係がお分かりいただけるでしょうか?
旧因幡霊場のすぐ左となり(東側)に、新しい因幡霊場が建設されたのです。
でも、新しい因幡霊場への入り口は旧施設の入り口をそのまま活用。なので、門を入ってから現役の因幡霊場へのアプローチが長ーーくなっています。

現役の因幡霊場側から見る 旧・因幡霊場跡

旧・因幡霊場では、1976年(昭和51)1月に亡くなった父方の曾祖母、1993年(平成5)11月に亡くなった父方の祖母、2002年(平成14)5月に亡くなった母方の祖父を火葬にしています。
旧・因幡霊場の外観、エントランスや炉前ホールの様子、火葬炉の数、拾骨室の様子は、残念ながらあまり覚えていません。
おぼろげな記憶ですが、外観は黒っぽい建物だったような・・・・
エントランスや炉前ホールは、まったく記憶にありません。
火葬炉の数はそんなに多くなかったような・・・・
拾骨室が白っぽい壁に囲まれた殺風景な部屋で、「狭い・・・・」と感じたことだけ覚えています。

霊灰塔と畜魂塔

旧・因幡霊場跡=駐車場の右奥(北西隅)に霊灰塔と畜魂塔が建っています。洗練されたデザインの塔ですが、2つの塔の場所自体は旧・因幡霊場の頃から変わっていないものと思われます。

霊灰塔
畜魂塔

現役の因幡霊場

現役の因幡霊場では、2022年(令和4)8月に亡くなった父を火葬にしています。ですからここの記憶はかなりはっきりしています。
と言っても、火葬場施設の中に入るのは一般には葬儀の時だけ。その際も遺族はあちこち見回したり写真を撮ったりする余裕はないので、細部までの記憶はないのですが・・・・
外観は紹介する写真をご覧いただくとして、内部は明るい感じでした。ジュースやソフトドリンクの自動販売機もあって、「へえ~」と思ったことも覚えています。
※この項以後、現役の因幡霊場を単に「因幡霊場」、旧・因幡霊場はそのまま「旧・因幡霊場」と表記します。

因幡霊場を旧・因幡霊場側(西側)から見る
エントランス1
入り口は3ヶ所あって、その一番右側(西側)のもの
父の火葬の時は、ここから入った記憶が・・・・
エントランス2
3つある入り口の真ん中のもの
エントランス3
3つある入り口の左(東側)のもの

エントランス3は、ひょっとしたら退出専用かもしれません。父の遺骨を拾骨したあと、ここから退出しました。

火葬棟および事務棟と思われる建物

炉前室は一つ一つ分かれていたような・・・・火葬炉がずらっと並んでいた記憶がありません。火葬炉ごとに個別に告別室が設けられ、遺族と親族、関係者のみで静かに故人と別れができるように配慮されていたのかもしれません。白い壁に囲まれた、そんなに大きくない部屋でした。
あるいは・・・・亡父の葬儀はコロナ禍もあって家族のみで行ったので、個室が用意されたのかもしれません。家族、親族、関係者が多数参列するような葬儀のために、もう少し大きめの告別室も用意されているかもしれません。

待合棟

建物の一番左はし(東のはし)が待合棟です。きれいなテーブルと椅子がたくさん並んだ清潔感のある部屋でした。

待合棟側(東側)から見た因幡霊場

火葬棟の裏側に回ってみました。

火葬棟裏側 動物炉入り口

旧・因幡霊場側(西側)から裏側に回ってすぐのところに動物炉への入り口がありました。
この扉を開けると、動物用の火葬炉があると思われます。愛犬や愛猫を火葬するところなのでしょう。

火葬棟裏側

火葬棟裏側の様子です。その奥にある建物はなんの用途の建物かは分かりませんでした。

ちなみに・・・・ここには朝の6時頃に訪れました。
東の方角からかすかな風が吹いていたのですが・・・・風に乗ってかすかなにおいが・・・・
そう、「焼き場」なのでやむを得ないことなのですが、「あのにおい」が敷地内にかすかに漂っていました。
<2024年8月4日 訪問>

終わりに

ここまで鳥取県東部の火葬場訪問記をご覧いただき、ありがとうございました。今夏の鳥取県の火葬場訪問記は、これで最終回になります。
鳥取県の現役の火葬場は、次に記す4つだけです。

・因幡霊場
・鳥取中部ふるさと斎苑
・琴浦町営斎場
・桜の苑

以前は相当な数の火葬場があったらしいのですが、1990年代に入ってから、急速に集約化と近代化が進んだようです。
でも、智頭町本折の火葬場跡のように記念碑や慰霊碑などが残されているとよいのですが、ほとんどの火葬場が別の施設に転用されたり空き地になってしまったりしているのではないかと思われます。「あそこは、あの山は、むかし火葬場・焼き場だった」と地域の人の口伝えで残っているのみの火葬場が大部分なのでしょう。
今回の帰省の時、実母に生家周辺(鳥取県八頭郡河原町)の火葬場情報を聞いてみたのですが、「旧郡家町の大御門(おおみかど)のあたりに昔の火葬場があったのではないか」という話が聞けたのみです。智頭町営火葬場の話も出ましたが、本折や新庄の集落火葬場の話は出てきませんでした。本折の集落火葬場はともかく、新庄の集落火葬場は実母の生家とは1.5㎞ほどしか離れていないんですけどね。
でも、昔も今も、自分の生活圏の外にある地域の記憶は、そんなものなのでしょう。

鳥取県は故郷ではあっても、そうたびたび訪れる場所ではないのですが、現役の火葬場はもちろん、以前の火葬場跡なども乏しい手がかりをもとにして見つけていければと思っています。

因幡霊場

次回予告 義民・東村勘右衛門 1-元文一揆

次回から「地域の悲史 鳥取県」を集中してお伝えします。1回目は江戸時代の鳥取藩で起きた元文一揆の指導者とされる義民・東村勘右衛門についての紹介です。

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