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【越後平野の四本柱火葬場・1】長岡市(旧寺泊町)北曽根火葬場跡

Youtubeで全国の斎場、火葬場を紹介されている「さいば萌」さん、さいば萌さんの動画にコメントを寄せられている「四本柱」さんのご教示で、新潟県中越地区に集落火葬場の歴史を秘める火葬場跡がかなり残されていることを知りました。
これから短期集中で越後平野の四本柱火葬場を紹介してまいります。
連載1回目は、長岡市(旧寺泊町)北曽根の火葬場跡です。

旧寺泊町概要

旧寺泊町は、以前は三島郡寺泊町でした。2006年(平成18)1月1日に長岡市と合併しました。
江戸時代は西回り航路の港町として、また北国街道の宿場町として栄えました。また本州の中では佐渡ヶ島と最短距離にあり、古くから佐渡と本土を結ぶ拠点でもありました。
寺泊港は現在も重要な漁港として位置づけられています。日本海に面した「魚の市場通り」には新鮮な魚を売る店が軒を連ね、祝休日には観光客でにぎわいます。首都圏にも出店している「角上魚類」の本社も寺泊にあります。
海に近い立地を生かした寺泊水族博物館もあります。
寺泊地区北端の野積(のづみ)には、日本最古の即身仏である弘智法印(こうち・ほういん)を祀った西生寺(さいしょうじ)があります。
自然と歴史と海産物の豊かな町です。

北曽根火葬場跡

この火葬場跡は、さいば萌さんが昨年の5月に動画で紹介されていました。【四本柱】越後の伝統的集落火葬場 - YouTube 寺泊は義姉の家族が住んでいるのでよく行っていましたが、この火葬場跡の存在は知りませんでした。昨年の5月22日に仕事休みを利用して訪問しました。

北曽根火葬場跡

北曽根の集落墓地の一画にあります。傍らを県道長岡寺泊線が走っています。
画像は、火葬場の南側(後ろ側)からの撮影になります。

北曽根火葬場跡

火葬場北側(正面側)からの撮影です。手前のブロックの祠には、石仏が祀られています。

北曽根火葬場跡

棺台と四本柱です。四本柱の後ろ側に小さく、六地蔵を祀った祠が写っています(白い自動車の前)。

北曽根火葬場跡

ちょっと角度を変えて、正面の少し斜め方向から撮影しました。
四本柱の中央=棺と故人を焼いた場所には、小石が集まっていましたが、何かの遺構かどうかは分かりません。

北曽根火葬場跡 棺台

北曽根火葬場跡の棺台です。昔の葬送儀礼は、いま勉強中なのですが、上の段に棺を置き、下の段に供物を供えたのでしょう。棺は、縄でしばるか、白布を巻くかして、最期の時を迎えたそうです。
そして、僧侶が最後の経を唱えて引導を渡し、遺族が最後のお別れをしたのでしょう。

北曽根火葬場跡 六地蔵
北曽根火葬場跡 祠と石仏

六地蔵と石仏は、ここから極楽へ旅立っていった多くの人たちを見送ってきたのでしょう。
どちらも荒れ果てていないので、今も大切に手入れがされていることが分かります。
<2023年(令和5)5月22日訪問>

寺泊 町軽井に伝わる民話「きつねと鱈」

その後、越後平野の四本柱火葬場や葬送儀礼を調べていたら、寺泊の町軽井(まちかるい)という集落に伝わる「きつねと鱈」という民話に、四本柱火葬場が出てくることが分かりました。興味深い話だったので、ここに再録いたします。
もとは、長岡市寺泊の「メディア研究会」というサイトの「大河津伝説集」というコーナーに掲載されていたものです。 oh-media.com/media.html# 

『 町軽井の、かねづか(金塚)、おおくぼ(大久保)などは、大昔はきつねが多く、きつねやち(狐谷地)などとよばれるところがあるくらいです。
 いつの頃か秋も終わりに近い頃のこと、陽もとっぶりと暮れてしまいました。冷え冷えとする夜気に、金蔵のじさまは夕飯のおかずに、たらを買って煮つけていました。するとそこへ本家の又治という若者が来て、「じじ、鱈を釣ったから、その鱈の煮つけとかえてくれんけい」とたのみますので、「よしよし」と、じさまは、その鱈をもって夜道へ出ました。
 夜おそくなってもじさまが帰らないので、家の人々は、提燈をさげて、じさまを探しに行ったら、火葬場の四本柱のところでガタガタふるえながら火をたいて背中あぶりをしていたということです。もちろん鱈は一ッ切れもありません。
 きつねが又治に化けて、じさまを川へ落として、鱈をとったのでしょう。
 
きつねと鱈 (oh-media.com)
 
※この伝説は、大河津公民館が昭和31年に「郷土史シリーズの第一集・大河津村伝説集」として発刊した書籍に載っていたものを、長岡市寺泊の「メディア研究会」がHP上に再録したものです。
 大河津村伝説集 (oh-media.com)  』

きつねに化かされて川に落とされたじさまが火をたいて背中をあぶっていたのは、どこの火葬場の四本柱なのでしょう。町軽井と北曽根はそんなに離れていないので、ひょっとしたら北曽根の火葬場の四本柱で、背中をあぶっていたのかも?
そう考えると、おかしさと不気味さで少しゾクゾクして来ます。

掲載されていたサイトには、「きつねと鱈」の紙芝居も掲載されていました。この民話を採話された方たちが「地域の子どもたちのために」ということで紙芝居にされたのと思いますが、じさまが背中をあぶっていた場所が、火葬場の四本柱ではなく小屋の中に改変されています。
「子どもたちを怖がらせないように」という配慮なのでしょうが、この民話がきつねに化かされたおかしさだけになって、深夜の火葬場で火をたいて背中をあぶるという行為の不気味さが消毒されてしまっています。

寺泊 町軽井 集落の向こう側には県道長岡寺泊線と信濃川
寺泊 町軽井 道に沿って細長く集落が続きます。
寺泊 町軽井 集落道沿いのお地蔵様

新潟の冬は寒いけど、冬の晴れた青空はきれいです。
<2024年(令和6)2月10日訪問>

これから紹介する火葬場跡の位置関係

今回紹介した北曽根火葬場跡と寺泊斎場、「きつねと鱈」採話地の位置関係です。寺泊には、もう一ヶ所、海沿いの松沢という地区の松林の中に昔の火葬場跡があるそうです。まだ手がかりはつかめていませんが、ぜひ場所を特定して訪問してみたいと思います。

【予告編】で紹介したように、越後平野の四本柱火葬場を記事にするため、2月9日と10日に中越地区に残る火葬場跡を訪問しましたが、その途中で新たに、長岡市(旧中之島町)長呂にも四本柱火葬場が残っていることを見つけました。また2月11日には、四本柱火葬場ではないのですが、三条市(旧栄町)新堀にあった古い火葬場跡も確認・訪問しました。
それらも含めて、長岡市・寺泊町・中之島町周辺の火葬場跡の位置関係を地図上で記します。

次回は見附市芝野町(今町)火葬場跡を紹介いたします。

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