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カウンセリングに行ってきた

カウンセリングに行ってきた。
家族や友だちに話すには長すぎる愚痴に感じられて、なかなか全部は話せないことを、誰かに聞いてもらいたかった。
お金を払うことで、聞いてもらう罪悪感を払拭しようとした。
カウンセラーさんも人間だから、聞いてイヤなこともあろうけれど、それでも私は誰かに聞いてほしかった。
アドバイスも励ましも必要ではなかった。
ただ聞いてもらいたかったのだけど、ただ聞いてもらう場所、人というのが、カウンセリングしか思いつかなかったのだ。

結果として、私は話したかった1/3くらい話して、あとはカウンセラーさんによるアドバイスや対処法、人の脳の仕組みについての話になった。
アレもコレも聞いてほしいんだけどな、話の腰を折る気力はあんまりないな、と思いつつ、「まあ、こんな事もあらぁな」と最後まで聞いた。

人に聞いてもらいたい、という感覚は不思議だ。
特に、今回のカウンセリングで私は自分自身に対して発見したのは、「私はただ受け止めてほしいんだな」ということ。

「私、まだまだなんです。がんばれないんです」
と話した時に、「そんなことないよ、よくがんばってるよ」ではなく、
「そうなんだね」
と聞いてほしい。
「私、どの職場でも迷惑かけてばっかりなんです」
と話した時に、「怒られてないなら、迷惑はかけてないよ。迷惑かけたって思い込んじゃってるんだね」ではなく、
「迷惑かけちゃったんだね」
と聞いてほしい。

なんだか、今の私には、「そんなことないよ」のひと言は、励ましではなく、否定に感じられてしまうんだ。
「あなたの認知は歪んでいるよ」
と否定されているように思ってしまうんだ。

これは本当に人それぞれの反応だから、カウンセラーさんは誠に大変なお仕事だと思う。
クライアントは、自分の話をした時のカウンセラーさんの反応に、それぞれの期待や「こうしてほしい」って希望があって、それがなかったらクライアントは勝手にさらに疲れていって、やがて口を閉ざしてしまう。
(カウンセリングに限らずかもしれない。人間関係の会話全般に言えることかも)

カウンセリングを終えて、私は思った。
「私の話をとことん、私の気が晴れるまで聞けるのは、私にしかできないんじゃないか?
何をどう聞いてほしいのか、どこまで聞いてほしいのか、今どんな気持ちになってるのか。
それが本当に分かるのは私だ。
なら、私がこの世で1番の、カウンセラー適任者かもしれない」

カウンセラーさんに失望したとかではなく、カウンセリングを終えて、「ふむ」と振り返った時に、なんとなくそう思ったのだ。

「もうちょっと話したかったな」
「でも勉強にはなった」
「しかしインプットではなくアウトプットがしたかったのよな」
「私の話し方が、先生にそうさせてしまったのかも」
「私の話し方を理解してもらうには、通うか、もっと相性のいい方を探すかだな」
「時間とお金をかけられる余裕はないなぁ(精神力の残量的に)」
「もうぬいぐるみに話した方が早いかも分からん」

とつらつら考えた時に、ポンと「あれ私でよくね?」となったのだ。

自分ではグルグルしてしまって、まとまらないから人に話そうと思ったのだけど、話しきれなかったから、甘えすぎないようにしようと。
やはり人に話すのは、相手の呼吸ややりたい事(話したいこと、伝えたいこと)もある分、自分にない気づきや刺激、発見を得られるけれど、私は今あまりに人のことを気遣えない。

気遣わなくていいのは自分しかいない。
雑に扱っていいということではなく、「今どのくらい私の言いたい・伝えたいことが通じてるだろう、私だけが突っ走ってないだろうか」と心配しなくていい、という意味で。

そこに気づけたことを考えれば、やはりお金を払って話を聞いてもらいに行って良かった。

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