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花とおおかみ

 

 くまは、ひとりぼっちでした。
 人付き合いは、きらいです。
 ひとりでいる方が、ずいぶんと気持ちが穏やかで、らくなのでした。
 人と酒を酌み交わす楽しさも知っています。
 けれども、くまは、ひとりで生きようと思ったのです。

 くまには、寂しいと思う夜があります。
 それは決まって、誰かのことを考えるときでした。
 おかあさん、おとうさん、おじいちゃん、おばあちゃん、兄弟、先生、友だち。

 寂しい夜には、子どもの頃の記憶をいつも思い出します。
 思い返せば、あれは決して割れないシャボン玉の中にいるような日々でした。
 温度がちょうどよくて、外の世界はきらきらしていて、見えないけれど大きくてふわふわとした膜に守られていました。
 けれど、今はどれだけ鮮明に思い出しても、あのシャボン玉が蘇ることはありません。

 失望したわけではありません。けれど、シャボン玉のことは諦めることにしました。
 諦めるのは寂しいけれど、楽になるということです。

 そうして、くまは、家族の元から離れ、できるだけ遠く、遠くへと行きました。
 友だちもいません。
 くまは、とうとうひとりぼっちになったのです。


 心の優しいくまは、虫や鼠や兎を殺したことはありません。
 狩りを教わり始めた他の子どもたちからばかにされたこともありましたが、そんな時もくまは、一人、原っぱで花の匂いを嗅いでいるのでした。

 春には花の蜜を吸い、夏には山菜を採り、秋には木の実を集めて、それを少しずつ食べて暮らしました。
 そのほかは、じっとして森の木々の葉が触れ合う音に耳をそばだてたり、大きな木のうろに寝床をこしらえて眠ったり、空と雲の色や形を眺めていました。

 くまがほんとうは優しいのだと知る者は、蚯蚓や甲虫の幼虫や蝶の蛹ほどしかおりませんでしたので、栗鼠や狸やなんかは、くまの姿を視界の端でちらりと見るや、怖がって一目散に逃げていってしまうのでした。


 くまは、本当にひとりぼっちでした。
 あまりにひとり静かに暮らしていると、心のところに隙間が空いて、ふと故郷の家族や昔の友人のことを思い出します。
 少し寂しくなったくまは、思い切って、おかあさんに手紙を書くことにしました。

 お元気ですか。

 おかあさんからの返事はこうでした。

 お前が去ってから色々なことがありました。
 お前の妹は、爪の立派な熊のところへ嫁に行きました。
 父さんは、だいたいどこかへ出かけていますが、週に一度は鹿やなんかを咥えて帰ってきます。
 昼間には、お前と同窓の狐の息子たちが、近所を賑やかに駆け回っています。
 向かいの家のお婆さんは、夫を亡くし、ひどく落ち込んで弱りきり、そのまま姿を見ません。
 暖かくなってきたけれども朝晩は冷えます。お元気で。さよなら。


 おかあさんからの手紙を読んだその夜、くまはお酒を飲みました。
 そうして、家族で暮らした日々を思いました。故郷の景色を思いました。
 幼い頃はみんなと一緒にいて、それは確かに幸せだったのに、いつから自分の心はこんなふうになってしまったのだろう。
 気が付けば自分のところだけ、時間が止まっているかのようでした。

 明くる日も、くまはお酒を飲みました。
 三晩飲みましても、気持ちは晴れず、ずんずんと悲しい気持ちになりました。
 いっそ家に帰りたい気がしたけれど、シャボン玉はやっぱりついに現れません。
 食事を摂る気分にもならず、ただ眠って過ごすのでした。

 そうして幾日も経った末、とうとうくまは病気になってしまいました。
 起き上がって、川のせせらぎや、水分を含んだ空や、大地の植物や虫たちのみなぎる様を、見に行く気概も湧きません。

 横になったままの頭で、くまはぼうっと考えます。
 何か、温かいものの湯気の匂いを嗅ぎたいものだ。こんな時に、野菜をたっぷり煮込んだスープを作ってくれる人がいたらなあ。
 くまはそう思いましたが、思ってみてもひとりぼっちです。
 ひとりぼっちになりたくて、皆と離れて暮らしてきたのです。
 けれども、こんな時はさみしいものだ、とくまは思いました。

 元より静かなくまは、それからいっそう内に篭もるようになりました。
 毛繕いを怠った毛皮は、土埃と皮脂と雨水と涙が混じり合って、黒く絡まり渦巻きました。
 起きて手近の葉などを少し齧っては、また眠りました。

 死ぬのは嫌だなあ。せめて地獄には行きたくない。動物を殺して肉を食べたりはしないけど、僕は歩くたびにきっと小さな虫やその卵をたくさん踏みつけにしているのだから、それはことによると食べてしまうのよりもっと残忍なことなのかもしれない。

 そう思っては、全てが厭になるのでした。


 日に日に薄黒く痩せていく可哀想なくま。 
 そんなくまの様子をこそりと見ていた者がおりました。
一匹のおおかみです。

 ある夜、おおかみは、くまが眠っている宵の隙に、くまの寝床のうろの入口から程よく朝日が射して見えるところへいくつかの果実を置き、その隣に小さな桃色の花を植えました。

 翌朝、陽の光にぽっと照らされた花を見つけたくまは、徐にそこに近寄り、置かれた果実に気がつきました。
 身も心も弱っていたくまは、おぼつかない指先で、そこにあった柘榴の実を割り、その粒を食べました。
 透き通った赤い粒は、土に汚れた手のひらの中できらきらと輝く宝石のように見えます。
 くまの心の中では、その煌めきが灯りとなって、ぽつりと小さく灯ったようでした。

 そのさらに翌朝も、花の隣には果実があります。
 いったい誰がこれを置いているのだろう。
 連日、果実をかじったおかげで元気を少し取り戻したくまは、いきなり不思議に思いました。
 そしてその夜、くまは寝ずに、その花のある場所をうろから見張ることにしました。
 もしかすると、今夜も何者かが果実を置きに来るかもしれません。

 もうまもなく夜明けがこようというその頃、それはようやく姿を現しました。
 黒く凛と立つ影に、黒く小さな目玉は月明かりを拾ってきらりと光って見えました。
 その口にはやはり、何かをくわえているようです。
 くまはそろりと近づきます。
 「おうい」
 久しぶりに聞く自分の声は、思ったより大きく低く、暗い森に響きました。
 おおかみは一瞬、身体を震わせたようにも見えましたが、すぐに落ち着いた澄んだ声で言いました。
 「起こしてしまいましたか。お節介をごめんなさい。ひどく痩せた姿をお見かけして心配になってしまったもので、つい」

 それは、美しいおおかみでした。
 彼女の声を響かせる、凛とした背筋としなやかな体が、夜の森の仄かな明かりに照らされて、そのわずかな光でも手に取るようによくわかりました。
 その時、くまの身体に、一筋の稲妻が走りました。
 身体の奥の方からあたたかいものが、波のように押し寄せる感覚は、生まれて初めてのことでした。


 それから二人は、一緒に過ごすようになりました。おおかみが毎日、果物や木の実を持ってきては、いろんな話をしてくれます。
 そんなおおかみのおかげで、くまの身体はだんだんと回復してゆきました。

 二人は、春には花を摘み、それらを編んで花冠を作りました。
 夏には丘の上に寝転んで空を眺めました。
 秋には二人で木の実を採って食べました。
 そして夜にはカシオペア座を見ました。星は燃えていました。

 「あの星たちは、誰が毎晩あかりを灯しているのだろう」
 「夜空の星は、誰かが光らせているわけではないの。この世界を、どこまでも遥か遠くへ行こうとした魂の主が燃えている。それが星なんだって。父が言っていたわ」

 それを聞いたくまは、星になるくらい遠くに行くのはどんな気持ちだったのだろう、と空を見上げて考えるのでした。


 星の季節も三度巡りました。昨日までの気温が嘘のように、うんと冷たい朝の空気です。
 くまは、今日もおおかみがやってくるのを待ちました。
 ずいぶんと冷えるから、あたたかいスープをこしらえておこう。いつもの頃合いに合わせて、出来立てのを用意しよう。
 けれども、いくら待てどもおおかみは来ませんでした。
 翌朝になり、冷え切ったスープは手付かずのままです。
 くまには、もうおおかみがやってこないことがなんとなくわかっていました。
 世界の何もかもに噛みついてやりたい気持ちにもなったけれど、たとえそうしても彼女はもういません。

 また一人になった夜に、くまは空を見上げます。
 君のためなら、僕は星にだってなるつもりだったな。
 そう思いながら、静かに土の上で眠るのでした。


 季節はまた、春です。
 くまは、おおかみと初めて出会ったうろの前に、花の種をたくさん蒔きました。
 いつか会う時、そこに花がありますように。

 それから次の年も、またその次の年も、そこには小さなエーデルワイスの花が凛と咲いています。



花とおおかみ
2021年


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