犬が死んだ。

今起こったことじゃないし、もうそれを思い出して落ち込むほどでもないくらいには、昔の話だ。
ただ、十数年一緒に暮らしていた、犬が死んだ。

私がちょうど仕事終わりに、恋人と合流して食事をしているときだった。
母から、連絡が来た。

これが「死にそうだ」という連絡だったら、その瞬間に荷物を持って立ち上がり、急いで帰ったに決まっている。
しかし、それは「死んじゃった!」というメッセージだった。

もう死んでいるのであれば、今から帰っても明日帰っても同じか、という嫌に冷徹な合理が私の中にはそのときあって、私はその日には帰らなかった。

今思えば、現実を見るための時間稼ぎ、という無意識の自衛でもあったかもしれない。

だが、ほんとうのところは「今日会えるというのを楽しみにやってきたのに、これを逃すとまた何週間も会えない」という、手放し難い今日という日への執着でもあった。(休みが被らないために、毎週末に会うとかはできなかった。)

それで、その日は結局彼の家に泊まったが、私はたいして眠れもせずよく泣いた。
彼はよく泣く私をどう思って見ていたのか知らないが、犬のことに触れるでもなく、いつも通りであったと思う。

今日は帰らない、という選択をしたのは私だ。
彼も、連絡をくれた母も、それを素直に聞き入れただけだ。

帰らないという選択をしたこと、それ自体を悔いているわけではない。
急いで帰ったって、やっぱり犬は生き返らないし、温かさもきっと残っていなかった。

しかしあの日の私は、「今この瞬間」のために、「一生の愛」を後回しにした。
その事実は残った。
そうさせる残酷な力が、恋にはあると知った。

恋はその瞬間のためだけに、もっと人生をかけて大切にするはずのものを、蔑ろにすることがある。

「いいから今日のところは帰りなさい、この埋め合わせはしてあげるから」とすぐに言ってくれるような人だったなら、今も一緒にいたかもしれないが。
お互いに、そのとき一番に思いやるべき対象を間違えた。
あれは愛ではなく、ただの恋だった。

あの日から私は、もう恋なんてしたくないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?