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③貴族政治と国風文化1-2

1.摂関政治

摂関政治

摂政・関白が引き続いて太政官の政治を主導し、政権の最高の座にあった10世紀後半から11世紀頃の政治を摂関政治と呼び、摂政・関白を出す家柄を摂関家と言う。
摂関家の内部では摂政・関白の地位を巡って一族の間に勢力争いが続いたが❶、11世紀になって藤原道長の時に治った。

❶特に、藤原兼通兼家の兄弟の争い、藤原道長・伊周の叔父・甥の争いは有名である。しかし、伊周が罪を得て左遷されると、道長は左大臣に進み、ここに藤原氏の一族間の争いは終わった。

この時代には、摂関家の勢力が最も盛んで、最高の官位を占める藤原氏の中でも頂点に立つ者が、藤原氏の「氏の長者」として大きな権力を持つに至った。道長は、4人の娘を次々に皇后や皇太子妃とし、30年にわたって朝廷で大きな権力を奮った。
後一条御朱雀後冷泉3代の天皇は皆道長の外孫で、道長の後を継いだ頼通は、3天皇の50年間に渡って摂政・関白を務め、摂関家の勢力は安定していた。
摂政は天皇が幼少の期間、その政務を代行し、関白は天皇の成人後の後見役を務めた。
当時の貴族社会では、子は母方の家で養育されて、母方の縁が非常に強く考えられていたから、天皇を後見する資格として、天皇の外戚(母方の親戚)である事が重要視されたのである❷。

❷当時の貴族社会では、結婚した男子は妻の家で生活する(招婿婚)のが普通で、邸宅などの財産は娘に譲られる事が多かった。藤原道長は、左大臣源雅信の娘と結婚して雅信の邸宅土御門邸で生活し、ここで長女彰子が生まれた。のちに土御門邸は彰子に譲られた。彰子が上東門院(上東門は土御門の別名)と称されたのは、邸宅名に由来する。

政治の運営は、摂関政治のもとでも天皇が太政官を通じて、中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとった❸。

❸主たる政務は、太政官の議政官(公卿)の合意によって審議され、普通は内裏の近衛の陣で行われる陣定の形式が取られた。審議の結果は、太政官符宣旨などの文書で命令・伝達された。

そして、摂関・関白は、最も縁故の深い外戚として天皇に近づき、伝統的な天皇の高い権威を自分のものとして、大きな権力を握った。 特に、摂政・関白は、役人の任免権に深く関わっており、摂関家と結ぶ院宮王臣家も官人推挙の権を持っていたから、中級・下級の官人層は、これらの上級貴族に隷属するようになり❹、上級貴族は彼らから土地や物品の寄進を受けるなどして、その権威を強めていった。

❹役人の地位の昇進の順序や慣例として、家柄・外戚関係によって、ほぼ一定していた。
その中で、中級官人などは、律令制の下で経済的に有利な地位とされていた地方の国司となることを求め、私領の獲得に努めた。

この時期の朝廷の政治は、次第に先例や儀式を重んじる形式的なものとなり、宮廷では、年中行事❺が発達した。

❺年中行事には、大祓賀茂祭りのような神事や灌仏のような仏事、七夕・相撲などの遊興の他、叙位除目か(官吏の任命)などの政務に関することまで、多くの儀式が定められていた。これらの中には、中国に起源を持つ行事や日本古来の風習に基づくものも混じっているが、ともに貴族の宮廷生活の行事として発達した。

その反面、地方の政治は国司に委ねられ、朝廷が国政に関して、積極的な施策を行うことは、ほとんど見られなくなった。貴族たちは、個人的に天皇や摂関家に取り入って、政治的・経済的基盤を確立することには熱心でも、国の行政に携わる責任感には欠けていた。

国際関係の変化

外交の面では、894(寛平6)年菅原道真の建議によって、遣唐使が廃止された❻。

❻菅原道真は、遣唐大使に任命されたが、唐の疲弊と航路の危険とを理由に派遣の停止を建議した。

すでに唐は、8世紀の内乱(安史の乱)ののちは、衰退を続けており、我が国にとって多くの危険を冒してまで公的な交渉を続ける必要がないと考えられたからである。
907(延喜7)年、東アジアの文化の中心であった唐はついに滅び、中国では、中国では五代の諸王朝を経て、宋(北宋)がこれに代わった。遣唐使の廃止後も、中央貴族は国交に消極的な態度を取り、そうと正式な国交を開こうとはしなかったが、宋の商船は、仕切りに九州の博多などに貿易のために来航した。
また、中国東北部では、奈良時代以降、わが国と親交のあった渤海が、926年、遼(契丹)に滅ぼされた❼。

❼刀伊と呼ばれ、遼の支配下にあった沿海州地方に住む女真人は、のちにを建国した。

朝鮮半島では、10世紀初めに、高麗が起こり、やがて新羅を滅ぼして半島を統一した。朝廷はこれらの諸国とも国交を開こうとはしなかったが、朝廷の許可を得て中国に渡る僧もあり、宋からは書籍や工芸品・薬品などが輸入されるなど、大陸との交渉は活発に行われた。

●● 広がる国際関係の水脈
遣唐使が廃止されたからといって、大陸への関心が衰えたわけではなかった。日本人の渡航は禁止されていたが、巡礼を目的とする僧には許された。宋からやってきた商人の船に同乗し、大陸に渡ってそうな文物を伝えた僧として、奝然寂照成尋らが知られている。中でも、奝然が持ち帰った釈迦如来像は、京都嵯峨の清涼寺に安置されて、熱狂的な信仰を獲得し、経典は摂関家に納められた。
他方、日本に渡来した宋の商人は博多に文物や薬品を携えてやってきて、代わりに金や水銀・真珠などの必要な産物を得て帰った。宋の商人が特に望んだのは金であるが、これは奥州が特産地であったことから、奥州への関心が高まった。11世紀に成立した「新猿楽記」と言う書物には「商人の主領」として描かれた人物が、東は「俘囚の地(奥州)」から西は「貴海の島(九州の南)」及ぶ活動を行い、唐物や日本のたくさんの品々を取り扱ったとしている。

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