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③貴族政治と国風文化1-1

1.摂関政治

藤原氏の発展

9世紀の初めには、桓武天皇嵯峨天皇が貴族を抑えて強い権力を握り、国政を指導した。しかし、この間に藤原氏、特に北家が天皇の権威と結びついて、次第に勢力を伸ばした。北家の藤原冬嗣嵯峨天皇の厚い信任を得て、蔵人頭になり、皇室と姻戚関係を結んだ。
ついでその後の藤原良房承和の変で伴(大伴)・両氏ら他氏族の勢力を退け、858(天安2)年に清和天皇が幼少で即位すると、天皇の外租父として臣下で初めて摂政の任を勤め❶、更に応天門の変❷で伴・両氏を没落させた。

良房が正式に摂政の命を受けたのは866(貞観8)年であるが、清和天皇は即位した時に9歳で幼かったため、実際は天皇の外祖父であった太政大臣の良房が、即位の初めから摂政の任を果たしたと思われる。

大納言伴善男が、866(貞観8)年、朝堂院の正門(応天門)に放火し、その罪を政敵に負わせようとして発覚し、流罪に処せられた事件。

また、884(元慶8)年、光孝天皇は即位にあたって、良房の養子である太政大臣藤原基経を優遇するために、基経を初めて関白とした。こうして藤原氏北家の勢力は急速に巨大となった❸。

❸888(仁和4)年、藤原基経は、即位にあたって宇多天皇に出した勅書に抗議し、それを撤回させ(阿衡の紛議)、関白の政治的地位を確立した。

しかし、宇多天皇は、基経の死後、摂政・関白を置かず、菅原道真を登用して藤原氏を抑えようとした。これに対し、藤原氏は、続く醍醐天皇の時代に策謀を用いて道真を政界から追放した❹。

❹藤原氏を外戚としない宇多天皇は、有名な学者である道真を重用して、藤原氏と対抗させようとした。しかし、道真は901(延喜元)年、左大臣藤原時平らの策謀により、右大臣から大宰権帥に左遷され、太宰府で死んだ。この道真の怨霊の祟りを恐れて、祀られた京都の北野天神は、後には学問の神様として崇められた。

10世紀前半には、一時、醍醐天皇村上天皇が親政を行い、後に「延喜・天暦の治」と称えられた❺。

❺醍醐天皇の時代には、班田を励行し、荘園を整理するなど、律令政治の復興に努力が払われ、また延喜格式古今和歌集の編纂などの文化事業も行われた。その子、村上天皇も父親の方針を受け継いだが、やがて都や地方の治安が乱れ、律令に、基づく政治はほとんど行われなくなった。

しかし、この間にも、藤原忠平が摂政・関白を務め、太政官の上に立って実権を握った。そして、969(安和2)年の安和の変で、左大臣の源高明が左遷されるに及び、藤原氏北家の勢力は不動のものとなった。
その後は、ほとんど常に摂政、または関白が置かれ、その地位には必ず藤原基経の子孫がつくのが例となった。

皇室と藤原氏の関係系図


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