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第2章 律令国家の形成❶

1.推古朝と飛鳥文化

中央集権への歩み

5世紀の半ば過ぎ、朝鮮半島では高句麗の勢いが強く、百済新羅を圧迫していた。しかし、6世紀に入ると、百済新羅はそれぞれ政治制度を整えて勢いを強め、南方の伽耶諸国(任那)は562年まで次々に百済新羅の支配下に入った。大和政権は、伽耶諸国に持っていた勢力の拠点を失ったが、なお百済などを通じて大陸文化とのつながりを保った。
この間、大和政権は6世紀初めに起こった筑紫国造磐井の乱を鎮め、屯倉名代を各地に置くなどして、地方に対する支配を強めていった。それとともに、大和政権を作っていた中央の豪族たちも、多くの土地・農民を支配して勢いを強める様になり、豪族同士の対立が激しくなった。6世紀初めの継体天皇の朝廷❶で、政治を指導した大伴氏は、朝鮮半島に対する政策の失敗によってやがて勢力を失い❷、6世紀中頃の欽明天皇の時には大連物部氏と、新たに勢いを強めてきた大臣蘇我氏とが対立する様になった❸。

❶継体天皇は、武烈天皇のあと北陸地方から迎えられて皇位を継いだと伝えられ、そのあと安閑宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷とが対立したとする説がある。

❷6世紀初め、日本は百済の求めにより、伽耶西部の四つの国(任那四県)を百済が支配することを承認したが、これに関連して大伴金村は百済から賄賂を受けたと非難され、のちにこれが元で失脚したと言う。

❸仏教受容をめぐり、それを推進する蘇我稲目と反対する物部尾輿との争いになったと言う。

当時、中央では品部の組織を整え、政治機構を充実しようとする動きが進んでいたが、蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権を握り❹、政治機構を整える動きを積極的に進めた。

斎蔵内蔵大蔵三蔵を管理し、屯倉の経営にも関与したと伝えられる。

推古朝の政治

中国では、北朝から興ったによって、589年、南北朝が統一された。隋は国内の政治制度を整えるとともに、高句麗に出兵するなど、周辺にも勢いを伸ばした。このため、東アジアの情勢には大きな変化が起こった。
朝廷では587年、蘇我馬子物部守屋を滅ぼして政権を独占し、更に592年には、対立していた崇峻天皇をも暗殺した。この様な政情の危機にあたって女帝として即位した推古天皇は、翌年、甥の聖徳太子(厩戸王子)を摂政とし、国政を担当させた。太子は大臣の蘇我馬子と協力し、内外の動きに対応して国政の改革にあたることになった。

推古天皇の朝廷では、603年に冠位十二階の制❺が定められた。冠位は姓とは異なり、才能や功績に応じて個人に与えられるもので、次第に昇進することができた。これは、のちの位階の制の起源をなすもので、役人としての性格を強めてきた豪族一人一人の朝廷内における地位をはっきりさせるのに役立った。

の六つをそれぞれ大小に分けて十二階とし、冠の色と飾りによってそれらの等級を示した。

また、604年に聖徳太子は憲法十七条を制定し、豪族たちに、国家の役人として政務にあたる上での心構えを説くとともに、仏教を敬うこと、国家の中心としての天皇に服従することを強調した。また、太子は馬子とともに、「天皇記」「国記」などの歴史書も編纂したと言う。これらの政策は、いずれも豪族を官僚として組織し、国家の形を整えることを目指したものであった。

1.推古朝と飛鳥文化

との交渉

倭の五王時代以後、大和政権は中国との交渉を行わなかったが、東アジアの情勢が大きく変化したのにともない、今までの外交方針を転換し、隋と国交を開くことになった。607年には小野妹子遣隋使として中国にわたり❶、隋の皇帝煬帝はこれに対し、翌年、国史、裴世清を使わした。隋との交渉では、その国書に示されるように、倭の五王時代とは異なり、中国の王朝に対して対等の立場を主張しようとする態度が認められる。

❶「隋書」には、これよりさき600年にも倭国(日本)の使いがきたと知らされている。

遣隋使には、高向玄理南淵請安・僧など、多くの留学生・学問僧が従った❷。

❷これら留学生・学問僧は、大陸から渡来した人々の子孫であった。

長期の滞在を終えて帰国した彼らの新知識は、のちの大化の改新に始まる国政改革に、大きな役割を果たした。

遣隋使の派遣 訳
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶために来ました。』と言った。その国書にいう。『日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子にお届けします。お変わりありませんか。云々』 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」

隋書倭国伝 参照

飛鳥文化

6世紀に我が国に伝えられた仏教は、初め渡来人や蘇我氏などによって信仰されたが、蘇我氏が朝廷の実権を握ると朝廷の保護を受けて急速に発展し、朝廷の置かれた飛鳥を中心に最初の仏教文化が興った。蘇我氏の発願による飛鳥寺(法興寺)、聖徳太子の発願によると言われている四天王寺斑鳩寺(法隆寺)をはじめ、諸氏も競って氏寺を建てた。

こうして寺院や仏像が、古墳に代わって豪族の権威を表すものとなったが、仏教は一般には、呪術の一種として信仰され、人々は祖先の冥福を祈ったり、病気の回復を願って仏像を作ることが多かった。当時の政治の中心が飛鳥にあったことから、この時代の文化を飛鳥文化と呼ぶ。
古墳時代には、渡来した人々を中心に様々な面で技術の進歩が見られ、文化は大いに発展した。飛鳥文化はそれまでの古墳文化に、新しく百済高句麗などを通じて伝えられた中国の南北朝時代の文化の影響が加わって生まれたものである。現存する法隆寺は一旦焼失したのち、7世紀後半に再建されたものと思われるが❸、南北朝時代の影響を受けた飛鳥建築の特色を残している。

❸「日本書紀」に670年法隆寺焼損の記事があるため、再建・非再建を巡って明治以降激しい論争が起こった。現在では、最初の法隆寺の建物と思われる若草伽藍跡の発掘の結果などから、現存の金堂・五重塔などは消失後に再建されたものと考えられている。

彫刻でも、仏師鞍作鳥(止利仏師)の作と言われる法隆寺金堂釈迦三尊像には、北魏の仏像と共通する整った厳しい表情が見られる。これらの金銅像の他に、中宮寺広隆寺半跏思惟像、法隆寺の百済観音像など、北魏様式とは別の系統に属する木造もある。また絵画や工芸も、高句麗の僧曇徴によって絵の具・紙・墨の製法が伝えられるなど、大陸からの新しい技法の伝来によって、飛躍的に発展した。

主な建築・美術作品
建築

彫刻

絵画

工芸

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