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②律令国家の形成3-2

3.平安京の時代

聖武天皇と政界の動揺

8世紀初めには、皇族や中央の有力貴族の間の勢力の均衡がよく保たれ、その協力の下に律令政治が運営された。しかし、社会の変動が進むとともに、藤原氏の進出とも相応じて、政界には次第に動揺が高まった。
藤原鎌足の子不比等は、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏の発展の基礎を固めた。不比等の死後も、その4子は引き続いて勢力をふるい、729(天平元)年には豪族の左大臣長屋王を策謀によって自殺させ(長屋王の変)、不比等の娘の光明子聖武天皇の皇后に立てることに成功した❶。しかし、この頃流行した疫病のため、4子は相次いで世を去った。

❶皇后は天皇なき後、臨時に政務を見たり、女帝として即位したりすることがあり、皇族でなければならないのが古来の慣例であった。

藤原4子の死後は、皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した玄昉吉備真備が、聖武天皇の信任を得て勢いを振るった。しかし、飢饉や疫病による社会の動揺が激しくなり、740(天平12)年には、藤原広嗣玄昉真備の追放を求めて九州で乱を起こし(藤原広嗣の乱)。乱が平定されたのちも朝廷の動揺は収まらず、聖武天皇はそれから数年の間、恭仁難波紫香楽と都を移した。
こうした情勢の下で、かねて熱く仏教を信仰していた聖武天皇は、仏教の鎮護国家の思想によって政治や社会の不安を鎮めようと考え、741(天平13)年には、国分建立の詔を出し、国ごとに国分寺国分尼寺を建てて金光明経など護国の経典を読ませた。更に743(天平15)年には大仏建立の詔を発して、近江の紫香楽で金銅の盧舎那仏の造立を始めた。この事業は京都が平城京に戻ると奈良に移され、孝謙天皇の755(天平勝宝4)年には東大寺の大仏の開眼供養の儀式が盛大に行われた。

国分寺建立の詔(現代語訳)
天平十三年三月乙巳、(聖武天皇は)詔の中で言われた、「私は徳の薄い身であるのにかかわらず、かたじけなくも天皇という重責についている。ところが、 いまだに民を教え導く良い政治を広められず、寝ても醒めても恥ずかしい思いでいっぱいだ。昔の名君は、みな祖先の仕事を良く受け継いで、国家は安泰であり、人々は楽しみ、災害がなく幸せに満ちていた。どのようにすれば、このような政治と教化ができるのであろうか。この頃は実りが豊かでなく、疫病も流行している。それを見るにつけ、私は恥じ入りかつ恐れ、自責の念に駆られている。そこで、広く人民のために、大きな幸福をもらたしたいと思う。以前(天平9年11月)、諸国に駅馬を走らせて、各地の神社を修造させたり、丈六(一丈六尺=約4.8m)の釈迦牟尼仏一体を造らせ、あわせて、大般若経を写させたのもそのためである。その甲斐あって、今年は春から秋の収穫の時期まで天候が順調で穀物も豊作であった。これは真心が伝わったためで、仏の賜物ともいうべきものである。考えてみると、金光明最勝王経には「もし広く世間でこの経を講義したり、読経暗誦したり、つつしんで供養し、行き渡らさせれば、われら四天王は常に来りてその国を守り、一切の災いは消滅し、心中にいだくもの悲しい思いや疫病もまた除去される。そして心のままに願いをかなえ、常に喜びが訪れるであろう」とある。そこで、諸国に命じて敬んで七重塔一基を造営し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経各一部を写経させることとする。私もまた別に、金文字で金光明最勝王経を写し、塔ごとに一部ずつ納めようと思う。願うところは、仏教が興隆し、天地とともに永続し、仏の加護の恩恵が来世と現世にいつまでも満ちることである。七重塔を持つ寺(国分寺)は「国の華」であり、必ず良い場所を選定し、いつまでも長く久しく続くようにしなさい。人家に近すぎて、においを感じさせるようなところは良くないし、遠すぎて人々が集まるのに疲れてしまうようなところも望ましくない。国司は国分寺を厳かに飾るように努め、清浄を保つように尽くしなさい。間近に仏教を擁護するものを感嘆させ、仏が望んで擁護されるように請い願いなさい。近い所にも遠い所にも布告を出して、私の意向を人民に知らしめなさい。」
また、国ごとの僧寺には、寺の財源として封戸を五十戸、水田十町を施し、尼寺には水田十町を施しなさい。
僧寺には必ず二十人の僧を住まわせ、その寺の名は金光明四天王護国之寺としなさい。また、尼寺には十人の尼を住まわせ、その寺の名は法華滅罪之寺とし、二つの寺の僧尼は共に教戒を受けるようにしなさい。もし僧尼に欠員が出たときは、すみやかに補充しなさい。毎月八日に、必ず金光明最勝王経を読み、月の半ばには戒と羯磨を暗誦しなさい。
毎月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)には、公私ともに魚とりや狩りをして殺生をしてはならない。国司は、常に監査を行いなさい。

続日本書記

大仏建立の詔(現代語訳)
聖武天皇の詔が出された。「天平15年10月15日をもって,衆生救済・仏法興隆の大願をたてて廬舎那大仏の金銅像一体を造ることにする。国中の銅を尽くして像を鋳造し,大山から木を伐り出して仏殿を建て,広く世界中にひろめて仏道成就の同志として,ともに仏恩にあずかり悟りを開きたいと思う。天下の富と権威をあわせ持つ者は私である。この富と権威とをもってすれば,尊像を造ることは困難ではないであろうが,それでは発願の趣旨にそわないものとなる。かえって無益な労働に酷使するだけになり仏のありがたさを感じず,またお互い中傷しあって罪人を生ずるようなことも恐れる。・・・・もし,一枝の草や一握りの土でも持ちよって造像に協力を願い出る者があれば,許し受け入れよ。国郡の役人は,この造立事業にことよせて人民の生活を乱し無理な税を取り立ててはならない。全国遠近にこの旨を布告して私の気持ちを知らせるようにせよ。」

続日本書記

聖武天皇が退位したのちは、光明皇太后(光明子)の下で、その甥にあたる藤原仲麻呂が権威を振るった。仲麻呂は反対派の橘諸兄の子奈良麻呂らを倒し(橘奈良麻呂の変)、淳仁天皇から恵美押勝の名を賜って専制的な政治を行った。
その後、孝謙上皇は、再び位について称徳天皇となり、道鏡はその下で太政大臣禅師となり、ついで法王の称号を得て権威を振るった。
この間、皇位の継承をめぐって皇族や貴族の争いが続き❷、また、宮殿や寺院の造営によって国家の財政も大きく乱れた。このため、藤原氏などの貴族は、称徳天皇が死去すると道鏡を追放し、新たに天智天皇の孫にあたる光仁天皇をたて、律令政治の再建に勤めた。

聖武天皇光明皇后との間には、娘の孝謙天皇(称徳天皇)しか残されておらず、次の皇位継承者を巡って争うが絶えなかった。称徳天皇の時、宇佐八幡宮の神託と称して道鏡を皇位につけようとする事件が起こったが、和気清麻呂らによって阻まれた。

新しい土地政策

8世紀には律令政治の展開に伴い、社会の基礎的な産業である農業も進歩し、鉄製の農具が一層普及した。農民の生活にも変化が起こり、それまでの竪穴住居に代わって、平地式の掘立柱の住居が西日本から普及し始めた❸。

❸これらの住居に住む人々の家族の様子は、今日と多少異なっていた。当時の結婚は、初めは男が女の家に通う形をとるが(妻問婚)、夫婦になってからはいずれかの父母の下で生活するのが普通であった。女性は、結婚しても、その氏姓を改めることはなく、また自分自身の財産を有していた。律令では中国に倣って父系の相続を重んじたが、子供の養育などには、実際には母の発言力が強かった。

竪穴住居

農民は、国家から与えられた口分田を耕作する他、口分田以外の公有の田(乗田)を国家から借り、それを耕作した❸。

❸これを賃租と言い、期間は一年が原則で、収穫の5分の1を地子として納めた。

しかし、農民にとって、調・庸の都への運搬(運脚)や雑徭などの労役の負担はことに厳しく、彼らは農作業に必要な時間まで奪われ、生活に余裕がなかった。天候の不順や虫害などのために、飢饉が起こりやすく、僅かなことでも生計が成り立たなくなることも多かった。
このような事情から、生活の苦しい農民の中には、口分田を捨て、戸籍に登録された土地を離れ他国に浮浪したり、都の造営工場の現場などから逃亡したりして、地方豪族など元に身寄せ、律令制の支配を逃れるものが増えた。有力な農民も、僧侶になったり、貴族の従者になるなどして税金の負担を免れようとした。こうした8世紀の末には、調・庸の滞納や品質の低下、兵士の弱体化などが目立ち、国家の財政や軍備にも多く影響を及ぼすようになった。
人口の増加に対して口分田が不足してきたためもあって、政府は田地の拡大を図り、722(養老6)年には百万町歩の開墾計画を立て、翌723(養老7)年には三世一身法を施行して、農民に開墾を奨励した。三世一身法は、新しく灌漑施設を作って耕地を開いたものには、三世の間、旧来の灌漑施設を利用したものについては、本人一代に限り、その田地の保有を認めるものであった。更に743(天平15)年には、政府は墾田永年私財法を発布し、開墾した土地は、定められた面積に限って永久に私有することを認めた❹。

❹墾田は租を納めるべき湯租田であった点で、口分田と同様であった。

この政策は、登録された田地を増やす事によって土地に対する政府の支配を強める効果があったが、反面、実際に土地を開墾できる能力を持つ貴族や寺院、地方豪族などの私有地拡大の動きを刺激することにもなった。ことに東大寺などの大寺院は広大な原野を独占し、国司郡司の協力を得、付近の農民や浮浪人などを使って大規模な開墾を行った。これを初期荘園と呼ぶ❺。

荘園(荘)とは、貴族や大寺院などが開墾の現地に設けた別宅や倉庫などの建築と周りの開墾とを合わせたものを言う。初期荘園はのちの荘園と異なり、国家の力を背景とし、その支配の仕組みを利用して作られたものが多かったため、9世紀以降、律令制が衰えると共にその大部分が衰退した。

三世一身法(現代語訳)
太政官から元正天皇に奏上された。「近ごろ,人民の人口がしだいに増え,班給する田地が不足がちになってきました。願わくは,国中に田地の開墾を奨励したいと思います。そこで,新しく溝や池を造って開墾を進める者があれば,その面積の多少を問わず三代の間にわたる所有を認めたいと思います。もし,旧来の溝や池を利用して開墾した者については,本人一代限りの所有を認めたいと思います。」この上奏は許可された。

続日本書記

墾田永年私財法(現代語訳)
聖武天皇の次のような詔が出された。「聞くところによると,墾田は,養老七年の格(三世一身法)によって,期限が満了になると,通例によって収公されることになっている。そのため農民は怠けてしまい,せっかく開墾した土地もまた荒れてしまうというのである。今後は,墾田は自由に私財として所有することを認め,三世一身法という期限を設けず,すべて永久に収公しない。開墾の限度は,親王の一品と貴族の一位の者は500町,二品と二位の者は400町,三品・四品と三位の者は,300町,四位の者は200町,五位の者は100町,六位以下八位以上の者は50町,初位から庶民までは10町とする。ただし郡司については,大領・少領は30町,主政・主帳は10町とする。もし,以前から給わっていた土地が,この限度以上の場合はすぐ国に返せ。」

続日本書記

貧窮問答歌(現代語訳)
風交じりの雨が降る夜の雨交じりの雪が降る夜はどうしようもなく寒いので,塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり,咳をしながら鼻をすする。少しはえているひげをなでて,自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが,寒くて仕方ないので,麻のあとんをひっかぶり,麻衣を重ね着しても寒い夜だ。私よりも貧しい人の父母は腹をすかせてこごえ,妻子は泣いているだろうに。こういう時はあなたはどのように暮らしているのか。
 天地は広いというけれど,私には狭いものだ。太陽や月は明るいというけれど,私のためには照らしてはくれないものだ。他の人もみなそうなんだろうか。私だけなのだろうか。人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなく,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ。ぬえ鳥の様にかぼそい声を出していると,短いもののはしを切るとでも言うように,鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえる。こんなにもどうしようもないものなのか,世の中というものは。この世の中はつらく,身もやせるように耐えられないと思うけれど,鳥ではないから,飛んで行ってしまうこともできない。

万葉集

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