大昔にいたはずの彼女の話 後編

前編↓

 前編を書いた2日後の深夜。またも寝付けないままTwitterを眺める。弱設定にした扇風機の無機質な音と不規則に湧き出る鈴虫の鳴き声だけが鼓膜を刺激する。

 ──なんというか、くだらない。そういった感情が脳を占める時間は日に日に増えていった。

 一日の食事は2度で済ますようになり生活習慣は乱れに乱れて自律神経はまともに用を成していない。不健全な肉体に健全な精神が宿るはずもなくジャンクな飯と博打に明け暮れた19歳は延々とネットに一人ぼやきを吐露し続ける。

 彼女と同じ高校に進学した5月の下旬頃の事だったか。もう高校生活のことはあまり覚えていない。部活の将棋とネット麻雀くらいしかまともに取り組んでいたものなかったのではなかろうか。

 球技大会も文化祭もどこかよそ者の目で見ていて印象に残ったことなんてない。ただその日の出来事だけは深く中枢に刻み込まれていた。

 それは帰りの電車から降りて駅の改札を通る時のことだった。仕切りのある自動改札機と違って端末にICカードを付けてあとは好きに通り抜けできる田舎のあのタイプだ。

 その時は偶然彼女の部活が早めに終わっていてタイミングが合ったらしい。ICカードをかざそうと端末に近づいたところで互いに気が付いた。

 「あ……」話しかけようとするが咄嗟に言葉が出てこない。そこで彼女の方から私に詰め寄って
「今も、私のこと、好き……?」と尋ねてきた。

「はい好きです付き合ってください」考えるより先に言葉が出ていた。絶好の好機には逡巡する時間すら無駄である。どんな酷い扱いをされても慕う感情はなお消えることなく燻っていたのだ。何ら迷うことはない。そのままの勢いで連絡先を交換し同じバスに乗ってしばらく話していた。

 それからは毎晩3〜6時間は通話をしていた。高校に入ってから彼女が親しくしていた友達と離れ離れになって心が病みかけていたこと、彼女の持つ親への強い憎悪、人間関係のストレスの話。ほとんど全て受け止め肯定した。 

 強い言葉で彼女を否定したのなんて勉強のしすぎでワーカホリック気味になり朝食がコーヒーと蒟蒻畑一個だけという話を聞いた時くらいか。1時間話す間に20回は「ちゃんとご飯たべてしっかり寝てくれほんと心配だから」と言った気がする。表向きは完璧な人間を装っている中私にだけは弱い内面をさらけ出してくれている、そのことがどうしようもなく嬉しかった。

 ある時同じバスの一番後ろの座席に二人きりでいた時のことだ。

 彼女が「よかったら……次のバス停で降りない?」と言ってきた。

 私の家はバスの終点近く、山の上にありそこから下りると2km程度は歩かなければならない。さらに言うと外は土砂降りで車内からでも風の吹き付ける音が聞こえてくる有様だ。

「嫌だ」「意外と冷たいね、君」「2つ先のバス停ならいい」「なんでよ、遠くなるでしょ」「少しでも長く一緒にいたいから。遠い方がいられる時間長いだろ」 車内の照明は薄暗く彼女の表情の変化までは読み取れなかった。ただ、その時の返事は普段より0.7秒は遅れていた。

 彼女は傘を持っていなかった。私はこうもり傘を押し付け濡れて歩いた。相合傘をするには少々私の体格は不釣り合いだった。それに傘の高さを私に合わせる関係上どうしても彼女が雨に濡れてしまう。横殴りの雨の風上に立って彼女と歩いた。

 そのまま家まで送り届けると門の前でこちらを振り向いた。傘をこちらに返し見つめながら囁く。

 「どこか、身体で好きなところある?」「唇」「欲に正直すぎ、じゃあ手かほっぺかおでこだったら?」「他はやっぱり恥ずかしいし……手で」
私がそう返すと、不意に屈みこんで左手の手の甲に口付けをした。言葉にならない声をあげようとする間もなく彼女は家へと駆け込んで行った。4秒ほど放心した後左手をポケットに入れて大事そうにしまったまま帰路へついた。一応言っておくが妄想ではない。全部事実だ。自分でも信じられないけどこんな時が確かに私にも存在していたのだ。
   
 あと他にも急に喘ぎ声の40秒程度のボイスメッセージを送ってきて「これは演技。7日我慢できたら本当の聞かせてあげるよ?」と誘った上約束の7日後もさらに焦らして深夜の睡眠欲と性欲の混濁した朦朧状態で通話でしたり(おかげで具体的にどんなこと言ってたか全然覚えてない。録音すればよかった)色々サドじみた意地悪を私に仕掛けてきた。今となってはそれさえ愛おしい。

 事が起きたのは6月23日のこと。いつも通りLINEのメッセージを送るが一向に既読も返事もない。まあ忙しいだろうし仕方ないなと思っていたが3日5日と連絡が取れない状態が続き心配はより根深くなる。心配になって彼女の友達の女子に話を聞くがどうもよく分からないらしい。そのまま1ヶ月が過ぎた。

 交際のことはごく一部の友人にしかおしえていない。そのため関係を知らない人からの情報も伏せられることなく入ってくる。

 彼女は別の男子と付き合っているだとか、天文部の先輩に告白されただとか、その噂によると私は3世代前の彼氏になるだとか気が気でないものばかり耳にした。それでも信じてはいたのだがある時通学路である男子と仲良さそうに話をしている彼女の姿が目に入った。

 ──もう、考えないようにした。

 麻雀の打数は増えた。病みかけた心につけ込むように取り入ったのだから心が落ち着けば私なんて必要なくなる。いいことじゃないか。元々なんでもできる優秀な彼女と愚鈍で怠惰な私とは住む世界が違ったのだ。

 そうやって、無理やりにでも彼女のことを忘れるよう努力した。それでも貰った絵は捨てられなかった。彼女はかけがえのない存在だった。だからこそ、替りの相手は誰でもよかった。リアルはそれだけ、ネットは数え上げるのも面倒なほど多くの女性と関わり、そして例外なく振られた。

 ある時偶然電車で向かいの座席に彼女が座った。こちらに気づくと立ち上がって隣の車両へ移動していった。あまりにも露骨すぎる嫌悪を浴びたが、私には却ってそれが微笑ましく思えた。彼女の意識の中に私が在っただけでも十分すぎる価値があった。

 高二、高三と同じクラスになったがそれでもこちらへ向けてくる悪意は相変わらずだ。授業でプリントを渡す時でさえ手渡しでは受け取ってくれない。テーブルに置いてそれを彼女が自分で手にする形となる。

 ちなみに彼女を奪った(私がそう書くのもおこがましいが)男とは今でも仲良くしている。交際関係は終わったらしいが(NTRモノの唯一のハッピーエンドルートは女性がどっちの男も振って一人で生きていくことだとこの件で学んだ)あちらは普通に話ができるらしい。私には挨拶すら許さないというのに。

 もう今何をしているかも知らない。どこの大学に行ったのか、そもそも大学に進学したのか、どこへ越して行ったのか今も実家にいるのかそれすら私は知らない。

 また会いたいとは言わない。ただ、無事に暮らしていてほしい。彼女らしさを失わないまま生きていってほしい。

 新聞配達のオートバイの音を聴きながらふとそう思った。

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