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父を慕いて ― 「ザ・マスター」

 この映画には心に問題を抱えた主人公フレディ・クエルが過去の経験に起因する暴力癖、怒り発作の嵐をマスターとの出会いにより、徐々に凪へと変えていく過程が描かれている。(本記事はネタバレを含むため、映画鑑賞後の閲覧をお勧めします。)

 フレディは第二次大戦中、給油係として兵役につき上海行きの船に乗る。そして1945年、PTSDを抱えて戻ってくる。長い間公表されなかったが、戦争で精神的なダメージを負った者たちを治療する専門の病院があり、そこでの治療の様子を撮影した「光あれ(Let There Be Light)」という映画がある。そこでの精神カウンセリングの様子が「ザ・マスター」で引用された(町山智浩解説)。PTSDという言葉はベトナム戦争を機に一般に周知されるようになったが、兵士の戦争による精神的後遺症は第一時世界大戦の頃から関係者の間で認知されていた。
 病院に収容された帰還兵たちは、オリエンテーションでこう告げられる。
「君たちが抱える問題を理解しない人もいるだろう。
“情けない”と思う者も。
だが、君たちと同じ経験をすれば、彼らもまた精神的な問題を抱える。」

 病院を出たフレディはどの職場でもトラブルを起こし、一箇所に留まることができなかった。トラブルの理由は怒りとアルコール、女性に対する欲望をコントロールできないことによるものだった。
 その振る舞いは動物、特に猿のようなものとして描かれる。劇中フレディはいつも前かがみ気味に歩行する。さらに兵役中、彼が船のマストの上で寝そべっているところに、デッキにいる同僚達からバナナが何本も投げつけられるシーンがあるが、あれは恐らくフレディの精神が猿のように原始的で未発達なものであることの隠喩であろう。
 なお、フレディが乗船した船はその映像から、戦時中にアメリカで大量に製造されたリバティー型戦時標準設計貨物船であり、さらにこの映画で使用された船は、リバティー船の中でたった2隻、現在も航行可能な状態で保存されているうちの1隻、ジョン・W・ブラウン号と推察される。

 いくつかの職場を転々とした後、ある農場でトラブルを起こしたフレディは、そのまま農場を逃げ出し、港にたどり着く。港に停泊していたボートの明かりと賑やかなダンスパーティーに吸い寄せられ、フレディはボートに飛び乗り、そこでランカスター・ドットという男と出会う。フレディが直前まで農場で働いていたこととランカスターの台詞から、船はサンフランシスコからパナマ海峡を経由してニューヨークを目指していたようだ。因みに、米国では労働力不足を補うため、1942年から1964年までプラセロ・プログラムとしてメキシコからの農業労働に従事する短期移民労働者を大量に受け入れていた。

 ランカスターの妻ペギーはフレディを朝食の席に誘い、「コーズ」の著者である夫は常に外部の攻撃と圧力を受けていると話す。船に乗っている者は皆、船上でランカスターの教えについて話し合ったり、彼の音声テープを聞きながらノートを取ったりと、ランカスターの熱心な信望者のようであった。

「陸の上では、あらゆる方面から批判を受けるの。執筆中も攻撃され自己防衛に追われてしまう。」
「誰が攻撃する?」
「恐れる人々よ。欲深い人々や別れた妻たち。」

「だから海はいいの。」

 フレディには手近にあるアルコール系の液体を使ってカクテルを作り出す才能があった。材料はガソリン、写真の現像液、整髪料のトニック、ペイントのうすめ液などなど。カクテルの一種に、ジンをオレンジジュースで割ったオレンジ・ブロッサムというのがあるが、これは1920年から1933年まで全米で施行された禁酒法時代に誕生した密造酒が元になっているという。まともなジンが手に入らなかった禁酒法時代、自宅のバスタブなどでアルコールを含む消毒液やヘアリキッドを原材料に蒸留され、その味の酷さを誤魔化すためにオレンジジュースが加えられた。当然、何人もの健康被害者や死者を出すような代物だったが、フレディは子供の頃にこの種のカクテルの製造法を知ったらしく、自身のアルコール依存も手伝い、このカクテルをあらゆる場所で作っては、周りの人々にも振る舞っていた。
 ランカスターはフレディの作る独自の酒と前夜に見せた言動に興味を示し、フレディにコーズ・メソッドによるセッションを施し、彼に「過去への旅」をさせる。コーズとはランカスターが編み出した治療法で、そのメソッドを使ったセッションにより、身体や精神の不調を改善するという。しかしその「治療」は国家から正式に医療行為として認定されたものではなかった。

 ランカスター・ドットとコーズという教団には実在のモデルがあるという。サイエントロジーというアメリカに本拠地を置く自己啓発系の新興宗教団体だ。俳優のトム・クルーズがこの教団のメソッドで学習障害を克服したとされているが、カルトだと批判する声も多く、また何かと怪しげな噂が多い。(町山智浩)

 セッションでフレディは、兵役で日本兵を殺し、季節労働先で父に似ていると慕った男を自作の酒が原因で死なせたこと、故郷で以前叔母と寝たこと、父親が既に死んでいないこと、母親が精神病院に入院していること、戦争から戻ったら結婚すると約束した女性を放ったらかしにしたままであることを告白。そのセッションで得た多幸感のおかげか、フレディはランカスターを慕うようになる。

 映画を見ながら、私は区役所で見かけたある高齢の女性のことを思い出していた。女性は区役所の入口付近にぼんやりと佇んでいたが、突如エントランスに置いてあった灰皿を蹴り始めた。二人の職員が現れ、女性を制止すると、女性は何事かつぶやきながらそのまま出ていった。職員たちは当惑した様子で互いに顔を見合わせ、「怖いねえ」と頷きあった。傍で見ていた私には、彼女が突然過去の嫌なことを思い出し、怒りの発作に駆られたのだろうと察しがついた。怒り発作には私自身長年苦しめられたからだ。怒り発作はいつも唐突にやってくる。時間・場所を選ばず、突然嫌な思いをしたその瞬間にタイムスリップする。その時に的確な反応、反撃ができず硬直していた自分に腹を立て、今、この場で過去の腹いせをするのだ。しかしその場違いな行動は周りには異常者としてしか映らない。
 フレディが抱える問題の理解者はごく僅かだった。劇中彼の抱える問題に興味を示し、最後まで見捨てなかったのはランカスターただ1人だ。

 フレディはランカスターの忠実な犬として彼を(フレディのやり方で)外敵から守り、マスターのための格好の被験者となった。そう、犬である。ランカスターがフレディにかける言葉を注意深く聞いてほしい。mischief(いたずら者、わんぱく小僧)、naughty boy(聞き分けのない子、行儀の悪い子)、good boy(いい子)。どれも子供や飼い犬に対して使われる言葉だ。ランカスターは自分の娘にも愛情を込めてmischiefと呼びかけている。フレディはランカスターを守るためなら、誰彼構わず噛みつき、ランカスターの実の息子でさえ攻撃する。

 ある日、ランカスターはスポンサーから横領罪で告訴され、逮捕される。ランカスターを守ろうと、その場で警官に暴力を振るったフレディもまた連行され、互いに隣り合った部屋に勾留される。そこで二人は罵り合う。

「あんたは家族に嫌われてる。息子にも!」
「君は誰に好かれてる?私以外誰に?」
「俺を嫌いなくせに!」
「私以外誰に?君を好きなのは私だけだ。」
「くたばれ!」
「私だけだぞ」
「あんただけ?」
「私だけが君を好きだ。私一人だけ。」

 その後長男ヴァルを除く家族全員から、フレディには自分を治す気がない、コーズの教義を全く信じていないなどという理由で追い出すように言われるが、ランカスターは「もし彼を救わないなら、我々は彼を見捨てることになる」と、フレディを庇う。その次のシーン、庭でふざけ合う二人の様子はまるで父子、あるいは恋人同士のようだ。

 ランカスターは言う。
「私は解明した。発見したのです。秘密を。今の肉体で生きるコツ。
そう、とてもとてもとても真面目な(ユーモラスな口調で)話です。
コツは、笑いです。」
ランカスターは折りに触れ笑いが大切だと言っているが、彼が例えペテン師であろうと、この言葉だけは世の真実だろうと思う。プロの詐欺師は嘘と事実を混ぜるのが上手いともいうが。

 ランカスターとその家族のコーズ・メソッドによる全面支援により、フレディは自身の竜をてなづけ、怒りをコントロールできるようになったかに見えた。さらに組織の布教活動にも積極的に関わるようになった。

 そんな布教活動の最中、古参の会員がマスターの2冊目の著書を批判したことで逆上し、その会員を殴り倒し、首を絞める。怒りをコントロールしきれていないことに気が付き、メソッドに限界と疑問を抱いたフレディは、ランカスターとのバイク競争の途中、そのまま走り去ってしまう。しかし、ランカスターが書いた2冊目の本には、明らかにフレディのメソッドに対する言動にインスパイヤされた部分が多く、それが会員たちを失望させたことがうかがえる。二人は全く合っていないように見えて、その実お互いに影響しあっていた。

 その足で故郷へと向かったフレディは恋人のドリスが3年前に結婚したことを知る。彼女が何年もフレディを待ち続けていたことも。恋人を失った故郷は彼にとって何の意味もなくなっていた。遅すぎた帰郷。フレディはセッションで「俺がバカだから」と言ったが、その時間は彼にとって必要な時間だったのだ。

 その後、映画館で転寝していたフレディは夢でランカスターが至急会いたがっているというメッセージを受け取る。(ついでにタバコのクールも買ってくるようにと)息子ですらイカサマ扱いしたマスターに備わった特殊能力によるものなのか、それともフレディに突如発現した能力なのか。ある意味、コーズ・メソッドが究極の形で花開いたかのようにも見える。急いで向かったイギリス支部で、果たしてランカスターは彼を本当に待っていた。
 フレディは、恐らくコーズを信望するどの信者よりも理想的な被験者であり、成果だった。フレディはコーズの教義を信じていなかった。信じていないゆえ疑うこともしなかった。ただただ、ランカスターを慕い、言う通りにしただけだ。それゆえランカスターにとっては自身の教えを証明する最も必要な人間だった。彼の教義に疑いを抱く信者たちよりも。教祖である自分の頭を常に押さえつけている妻よりも。

 ランカスターが夢で「最初の出会いがわかった」と言ったことについて説明を求めるフレディに、彼は前世での二人の出会いについて話す。パリで共に伝書鳩通信員として働いていたと。

「ここを去るなら二度と会いたくない。またはここに残るか。」
「・・・たぶん次の人生で。」
「次の人生で出会うなら、君は私の最大の敵だろう。私は容赦しないぞ。」

 そう言うと、ランカスターはフレディの目を見つめながら「中国行きのスロウ・ボート」を歌いだす。昔恋人ドリスが彼に歌いかけたように。

I'd like to get you on a slow boat to China
All to myself alone
Get you and keep you in my arms evermore
Leave all your lovers weeping on the faraway shore

Out on the briny with the moon big and shinny
Melting your heart of stone
I'd love to get you on a slow boat to China
All to myself alone

中国行きのスロウ・ボートで君をさらって行きたい
全てを独り占めしたい
さらってこのままずっとこの腕に抱いていよう
君の恋人たちを遠い海岸で泣かせたまま

でっかい月が輝く海の上なら
君の石のように頑なな心も解かしてしまうだろう
中国行きのスロウ・ボートで君をさらって行きたい
全てを独り占めしたい

 その歌を聞きながら、フレディは涙を流す。ランカスターはコーズの教義を決して受け入れようとしない「マスターに仕えない」もっと言えば、父代わりを務めた彼の元を去るフレディを受け入れ、それでも送り出すと言ってくれた。
 彼の歌声を聞きながら、観客の私達もまた、ランカスターの台詞「君とは以前合ったことがある気がする。」という言葉が、単なるフレディの気を引くための思わせぶりではなかったことを知る。

 西洋圏の人間にとってその昔、東洋ははるか遠い異国の地だった。現在でも東京からイギリス、ニューヨークまで貨物船で30日はかかる。歌詞に「中国」を使ったのは、できるだけ恋人と長い間二人きりでいたいという願望を表現したのだろう。
 歌詞中に出てくる”shinny”という単語、shineの形容詞形はshinyであり本来は「輝く」という意味はない。この歌詞でなぜ”shinny”が使われているのかははっきりしないが、実は“shinny”にはアメリカの方言で「密造酒」という意味がある。そして同じく「密造酒」を指す”moonshine”という言葉には「荒唐無稽な話、たわごと」という意味も持っており、期せずしてこの言葉がフレディとランカスター両方を想起させるようになっている。
 なお、日本語のボートは小舟を指す言葉だが、boatは船全般を指す言葉であり、歌詞中の彼らは決して小舟で中国を目指すわけではない。

 劇中3度出てくる砂の女のシーン、最後に彼女と寝そべるフレディの様子は穏やかで、ある程度の心の安定を得たように見える。結局彼を救ったのはメソッドではなく、父親のような人物から、彼自身の全てを肯定されたことなのだろう。彼はフラフラと彷徨を続けながら、それでも人々との出会いに意味を見出している。恋人ドリスにも。ランカスターにも。船乗りにもいろいろいるのだ。ボラード(繋船柱)に繋がれ、陸に上る者がいれば、外洋に出たままなかなか帰ってこない者も。

 そして、続くエンディング曲がフレディからランカスターへの返歌となっている。

We were waltzing together to a dreamy melody
When they called out "change partners"
And you waltzed away from me
Now my arms feel so empty as I gaze around the floor
And I'll keep on changing partners
Till I hold you once more

Though we danced for one moment and too soon we had to part
In that wonderful moment something happened to my heart
So I'll keep changing partners till you're in my arms and then
Oh, my darling I will never change partners again

俺達、夢のようなメロディーに合わせワルツを踊っていた
「パートナー交代」の合図の声で
君は俺からワルツのステップで離れていった
腕の中は空っぽ 俺はダンス・フロアを見渡し
パートナーを替え続ける
君を再び腕に抱くまで

ほんの束の間一緒に踊り あまりに早く別れの時が来たけれど
あの素晴らしい一瞬 俺の心に変化が起きた
だから俺はパートナーを替え続ける 君を抱きしめる時まで
その時は、ダーリン もう二度とパートナーは替えない


 そうしてお互いこう交わすのだ。
「来世で会いましょう」と。


参考:
Wikipedia 密造酒
町山智浩氏のポッドキャスト
「戦時標準船入門」大内健二著

表題の写真引用元
http://www.patheos.com/blogs/dochollywood/2012/09/processing-the-master/

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