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母性原理・個人・民主主義 第1章第3節 母性原理-場の倫理の社会

この論文の第1章、第3節です。
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母性原理が優勢になっている社会では、与えられた場の平衡状態の維持がもっとも大事なことになる。その中で個人の自我は他の人との繋がりの中に位置し、自分の主張よりも他との調和を重んじる。日本人の自我はまさに母性原理が優勢になっている。

「場の倫理」の社会

それは多くの日本人の会社員が「会社の為に頑張ります」と言うことが美徳だと感じていることからもよくわかる(*1)

*1 これは1989年に書いた文章です。今(2020年)は、「会社のために頑張ります」って人少なくなったと思います。

「家族のため」「子供のため」というように、自分の存在を主張するのではなく、全体の意見として主張することが正しいこととされる。「一応たてて」という言葉や、何かと言うと挨拶に行くという習慣(それを怠ると冷たいやつだと言われる)も、日本における個人にとっていかに場の関係が重要なものだかが認識できる。

河合隼雄は「日本人は依存することより自立することに罪悪感を感じ、いつまでも続けることが本当のように感じている」と、日本人の自我について論じている。この場の平衡状態を保つために、場の中の構成員に完全な順序づけを行うという方法が考え出された。場の中での対立は厳禁なので、順序の上のものから発言することによって、それを避けようとするのである。この特殊な状態の社会構造(または人間関係)はタテ社会という概念で説明できる。

タテの関係と「ウチの者」「ヨソ者」

日本には、社会集団に属するとその中には同列には置かれない「A」「B」を結ぶ関係としてタテの関係が存在している。同一の集団にいる同一資格を有するものたちは、その集団の中でタテの運動に影響され、年齢、入社年度、勤続期間の長短などの方法で「差」が設定され、強調されることによって、驚くほど精緻な序列の形に収まっていく。要するに「同じ資格、あるいは身分を有するものの間であっても、常に序列による差が意識され、また実際にそれが存在するということが、その集団内の個人にとっては直接的な関心ごとであるがゆえに、それが職種、身分、位階による相違以上の重要性を持ちやすいのである。」ということである。

日本では、個人では(人間では)なく、場そのものに最も価値があるため、場の中にどれだけ長くいるかとか、場にどれだけあった行動をとっているかなどのことの方が、個人の能力、資格より重要になってくる。そして、場自体が、その人自身が持つアイデンティティになるので、場の枠をはっきりしておかなければならない。集団成員が自分たちに他とは違うんだという意識を強調し続けなければならない。そうでないと、自分と他人の区別がなくなりやすい。場がその人の価値になるのに、その区別がなくなることは、自分のアイデンティティをなくすことになる。これが「ウチの者」「ヨソ者」意識と言われるものになる。この意識と「タテ社会」との関係は、とても密接である。「ウチの者」でいなければならないために、「タテ社会の序列」に組み込まれていくのである、「ウチの者」意識が強まると、その人間関係は、社交性が欠如したものになる。社交性とは何かというと「いろいろ異なる個々人に接した場合、如才なく振る舞えること」である。「ウチの者」的な感覚だと、そのようなことはする必要がない。なぜなら集団との一体感が一番重要なことであり(一体感は感情的なものなので、論理で通用しない世界である。)、またそれが社会的安定性にもつながるからである。それは外部から見るとその一体化の強さのため、閉鎖的な存在にも見える。

また、「ウチの者」からくる一体感は、土居健郎の指摘している甘えの感情から成り立つものだと言える。甘えの原型が「乳児がおぼろげに自分と別の存在であると知覚する母親と密着すること」であり、「母子の分離の事実を心理的に否定」しているのである。甘えに値する外国語は存在せず、甘えこそ、母性原理の無差別的平等という場の中での大切なコミュニケーションになる。「ウチの者」「ヨソ者」意識からくる人間関係を真庭充幸は、「包摂と排斥の構造」と呼び、日本の集団が場を形成し、「ウチの者」として包摂していくことを歴史的に論じている。その中で包摂の歴史的根本を農耕民族による農耕文化に由来するという説を紹介している。これは起源としては確実な説ではない。しかし、その後も日本は稲作農耕文化であり続け、その文化の歴史は包摂の歴史であるとしている。

歴史から見る「場の形成」の文化

「中近世の伝統的な村落での農業経営の成立には、他者との一体化による結束が不可欠であった。それらの集団では、集団生活は神聖化され、個人の生活が犠牲になることもあった。個人的な利害の主張はしばしば自分のみではなく、集団自体の存続をも破滅に導くこともあり得る。これが包摂の構造の基盤になった」としている。

そして、明治維新になり、現代にも通づる倫理が確立されていく。ともすれば閉鎖的な集団に分割しやすい日本の社会において、「天皇の赤子という番人を包摂するために適切で効果的な理念」で日本そのもの一体化していくのである。明治政府は、家族制度的な家をモデルとして、これを国家にまで延長し、いわゆる家族国家間を様々な教育を通して国民に植え付けた。なぜこのようなものを作らねばならなかったのか。その原因は1853年のペリー来航だと岸田秀は言っている。

それまでの日本は、有史以来、一度として外国の侵略や支配を受けてことのない、いわば甘やかされた子供であった。もちろん古くは、朝鮮、中国と関係を持ち、近くはポルトガル、オランダともわずかながら関係を持ったが、それらはあくまで日本側から言えば、気ままな関係であった。つまり気に食わなければいつ絶交してもたいして日本は困らないのであった。    (岸田秀 ものぐさ精神分析

これは大人の関係ではない。その閉ざされた(外国との交流はもっと言えば、物の交流であり、人と人との交流ではなかった)社会に倒叙ペリー率いる東インド艦隊がやってきて、無理やり開国を強制された。そしていきなり世界に放り出された日本は、天皇制という包摂をより純化した「場」を必要とした。それは西欧諸国と同等になるため。そし突如の変化に惑わされないように民衆の精神の安定をはかるためであった。天皇はキリスト教に変わる一神教の代用品として日本新党における唯一の神(現人神)であった、しかし、その中身は、1つの強力な場となっていた。甘えることが理想化され、その世界こそが真に人間的な世界になっていた。

言い換えれば、天皇制とは父性原理の渦巻く西洋の世界に、突如巻き込まれた時に編み出された、母性原理を守り続けていくためのシステムだったと言える。

第二次世界大戦に惨敗することで、天皇制による場は、完全に機能をはたせなくなる。しかし、社会規制として完全に定着していたこれらの母性原理が消えることはなかった。このことについて土居健郎は、「現代はイデオロギーとしての天皇制が崩壊した時代である。そこでいわば無統制の甘えが世間に氾濫し、いたるところに小天皇が発生している。」と言っている。会社などいたるところの数段に包摂の力があたらいて、それぞれの「場」におさまっていくのである。

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